原子核・素粒子物理学と競争的科学観の帰趨

昭和前期における日本の物理学者たちの研究に対する姿勢を「競争的科学観」という概念を設定して分析した論考を読みました。「西洋においつきおいこせ」、その内実は複雑さに満ちていたようです。


岡本拓司, 「原子核素粒子物理学と競争的科学観」『昭和前期の科学思想史』勁草書房, 2011, pp.105-185


昭和前期の科学思想史

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  • 概要


江戸末期生まれで御雇外国人の導くままに西洋から移植された科学を学んでいた長岡半太郎は、やがて西洋における科学の最先端の動向を把握するに至り、それと対等に勝負することを目指して研究する方向へと転換した。また長岡は後進にも西洋に互するような研究を目指すよう発破をかけ続けたが、日本の研究水準がそれに達したと認められたのは長岡の最晩年のことであり、長岡は容易に日本人の研究をほめることはしなかった。仁科芳雄も長岡と同様の問題意識を持っていたが、日本の研究体制・設備が貧弱であるが故にそのインフラ整備に自身のリソースの大半を割かざるを得なかった。


その次の世代としての湯川秀樹朝永振一郎といった研究者はタイミングに恵まれていた。量子力学という新しい分野が物理学において「パラダイムシフト」をもたらした結果、西洋の研究者に対して「蓄積」という意味で遅れをとることがなかった。同じスタートラインから出発できたという外的な環境の中で、湯川や朝永は新興で難解な学問に対するあこがれをモチベーションとしていた。そこには長岡や仁科に見られるような「競争的科学観」を観察するのは難しい。なお筆者は、明治期に整備された帝国大学・高等学校を中心とする語学・基礎教育体制が彼らが最先端の研究に従事する基礎体力を作ったとも指摘している。


長岡の死の直前、湯川のノーベル賞受賞によりこの競争は一つの区切りを迎える。湯川世代においては他国との競争という点は必ずしも主要なモチベーションではなかったが、純粋に「世界を理解する」という個人ベースの目的に邁進したというのもまた難しく、知性が世界のトップにあって尊敬・評価されるという知的自尊心の充足が重要であった。

  • 純粋科学について(個人的メモ)


・日本においては工学・農学が応用を目的として高い社会的地位を持って役割を果たしていたが故に、物理学等の純粋科学において応用を目的とすることを必要とさせなかったという逆説的な側面がある。故に純粋な科学としての物理学が発展する土壌があった。


・応用により国力を高めることを通じて国家間競争をするのではなく、純粋な知的成果を出せるかどうかを国ベースで競うという別次元での国家間競争があった。


・特に仁科らが戦時中も純粋科学を志向した背景として、彼らが「戦争が終わったときに純粋研究では相手に劣っていた」と評価されるのをよしとしなかったということがある。戦争が中終盤に差し掛かると純粋科学を志向していた彼らでさえ応用研究に邁進せざるを得なくなるが、それが戦争の帰結を決することはなかった。


・純粋科学の成果をもって競争するという枠組みは世界的に共有されたといえるものだったが、戦時中は一時的に「原子爆弾の開発」という応用分野における成果を誰が一番先に達成するかという目的がそれに取って代わった。


・戦後入ったアメリカの調査団には「経済難、食糧難の中で基礎研究に拘り過ぎである」との評価をくだされた。

  • その他


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日本の原子核・素粒子理論研究隆盛の要因 岡本「競争的科学観の帰趨」 - オシテオサレテ


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