日本における産学連携―その創始期に見る特徴―

明治初期から第二次世界大戦にかけて、日本の産学官軍連携はどのような状況にあったのか?第一次世界大戦を契機とした、産学官軍の密接な連携を詳述した論文。本論文では、大学の学知の中でも工学、医学、化学といった応用部門が取り上げられその産学官軍の連携の実態が事細かに記述されている。


鎌谷親善「日本における産学連携―その創始期に見る特徴―」『国立教育政策研究所紀要』第135集, pp57-102, 2006年3月
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  • 概要


明治期の日本においては幕末の蘭学-洋学を実学として捉えた延長線上で西欧科学技術が捉えられ、工学や農学といった「国家ノ枢要ニ応シル」学問を包含した総合大学が成立していた。大学においては初期の段階から学界と官界を行き来する教員が多数見られ、官と学が密接な関係を保持していた。また1884年東京大学理学部に海軍の要請で造船学科が創設されたのに象徴されるように、軍との関係も密接なものであった。池田菊苗がうま味成分としてのグルタミン酸ナトリウムを発見(1907)し、民間企業と共同で「味の素」として発売したことは、大学が持つ先端知が産学連携を通じて商業化されていたことの好例である。なお筆者は国立試験研究機関(衛生局、醸造試験所など)の成立にも着目し、産業のインフラとしての基礎研究機関が明治初期の段階で官界で整備されていたことも取り上げている。


西洋科学技術の国産化を達成するために産学官軍は密接な関係を保ち続けた。そこでは、日露戦争で各国が局外中立を厳守したが故に英国製軍艦の引き渡しがなされなかった結果造船技術の国産化が目指されたという事例にみられるように、安全保障上の理由も強く働いていた。この流れが一つの頂点に達するのが第一次世界大戦(1914-1918)である。列強が科学技術動員を背景とした総力戦を展開したことに刺激されて、単に軍事技術のみを育成するのではなく幅広い科学技術、産業の育成を通じた国力増進が強く志向された。その際には、新たな大学令の公布による単科大学・私立大学の設置という形での、大学の制度的整備と量的質的な充実も図られた。また理化学研究所、そして東京大学航空研究所*1などの附置研究所が設立されたのも同時期である。これらの研究所においては教育義務を免除し研究の自由が確保された上で、官民軍からの寄付や研究成果の商業化による収入が柱となる収入金支弁方式によって運営が支えられていた。個々の研究者の独立性が高い「研究室方式」をとっていたこれらの研究所では、軍事のみならず民生面においても幅広い成果とその商業化が見られた(例:医薬品、一般工業用品、化学製品など)。


日中戦争、そして第二次世界大戦と時局が進行する中で、産学官軍の連携による研究開発は挫折も経験している。例えば液体燃料の開発については、京都大学に附置された化学研究所において政府の資金と住友財閥からの寄付により合成石油の製造が研究された。大戦末期にはプラント建設にまでたどり着くが、本格的な産業化には至らず、日本は降伏した。以上の経緯を振り返ると、日本の学界はその成立段階からして応用分野を包摂していたために産学連携に親和的であったといえ、第一次世界大戦という刺激を通じて幅広い応用分野で産学連携の成果が見られたものの、最終的に第二次世界大戦の帰結には貢献できなかったといえる。なお筆者は、官民軍の側にも試験研究部門があったことで、大学における研究成果を産業化する素地が整っていたことも強調している。




*1:筆者によれば、当初航研が越中島に置かれたのは、水上用飛行機の開発を求めていた陸海軍の要請によるものである。ただし航研は関東大震災で壊滅的な打撃を受けた結果、駒場に移転している