映画『スポットライト 世紀のスクープ』
硬派の社会派映画としてアカデミー作品賞を受賞した『スポットライト 世紀のスクープ』を観てきました。
- あらすじ
2001年の夏、ボストン・グローブ紙に新しい編集局長のマーティ・バロンが着任する。マイアミからやってきたアウトサイダーのバロンは、地元出身の誰もがタブー視するカトリック教会の権威にひるまず、ある神父による性的虐待事件を詳しく掘り下げる方針を打ち出す。その担当を命じられたのは、独自の極秘調査に基づく特集記事欄《スポットライト》を手がける4人の記者たち。デスクのウォルター"ロビー"ロビンソンをリーダーとするチームは、事件の被害者や弁護士らへの地道な取材を積み重ね、大勢の神父が同様の罪を犯しているおぞましい実態と、その背後に教会の隠蔽システムが存在する疑惑を探り当てる。やがて9.11同時多発テロ発生による一時中断を余儀なくされながらも、チームは一丸となって教会の罪を暴くために闘い続けるのだった・・・。
公式サイト:http://spotlight-scoop.com/
※以下ネタバレあり。
- ジャーナリズムへの教訓
この映画をジャーナリズムの成功例としてみた場合、私自身が一番の教訓として読み取ったのは、必要悪は避けがたいという冷めた視点に立つことによって、黙殺されてしまう事実があるのではないかということだった。劇中、ボストン・グローブの記者たちは何度も「人々は教会を必要としている」「事を荒立てるのか」といった形で教会シンパからプレッシャーをかけられる。しかし結末では、報道を受けてそれまで口を閉ざしてきた幼児虐待の被害者たちが嵐のように編集部へ電話を入れる光景が描かれる。我々はよく、少し賢くなったつもりで「大事のためには小事をかまってはいられない」という思考に陥ってしまいがちなのだと思う。でも、この報道とそれに対する反響が示すのは、小事だと思っていたことがは実は小事ではないこともあるということだ。小事、必要悪だと思っている、いや思い込まされるのは時に権力側の都合だったりする。我々は賢くなったつもりで、全体最適というマジックワードの元に、事実を深く調べる事を怠ってはいないだろうか?そう自問せざるをえない結末だった。大事であれ小事であれ事実は事実なのであり、それを報道し世に問うというのがメディアが持つべき覚悟だと感じた。
もう一つは、端緒はどこにでもあるということだ。この映画で描かれる事件は、数十年も前から問題としては誰しもが知っているものだった。個別の神父に関しては報道で糾弾されていた。にもかかわらず、それを構造的問題として捉え、粘り強く掘り下げることを怠っていたのは、まさにウォッチドッグとしてのマスコミの怠慢だったといえよう。その怠慢を正面から捉え、反省のもとに徹底的な調査報道を志向する特別報道チームの姿はまさに、端緒はどこにでもあり、それを掘り進めるかどうかが問われているということだと思う。劇中では他社の記者が資料公開請求の裁判を傍聴に訪れるという描写もある。誰にでも平等にチャンスは与えられている、でも他の人と違うことをやらないとスクープにはならないということなのだろう(当たり前すぎるけど。
機密保持については、映画で描かれている限りでは甘いと言わざるをえない。人通りのあるところで大声で話ししすぎだし、喫茶店でのインタビューもワキが甘い。本当にこんなザルだったのだろうか。教会側の隠蔽への動きがわかりにくい以上、市民全てが潜在的な敵だと思って行動すべきなのではないかと思った。
あとは裁判のテクニカルな部分。証拠資料が原則として公開されるということ自体はアメリカ司法が我が国の司法に優越する面なのだろうが、それはともかく、証拠開示に関する記者の法手続き的な理解が甘い。必死で公開を請求していた資料が実は別のところであっさり見られるようになっていたというのはずいぶん抜けている。そんなに法的にマイナーな手続きだったのだろうか、疑問が残る。ついでにいうと、教会が証拠資料を隠蔽できるとかいうのはいかなる法的根拠があってそうなっているのだろうか?司法の側が教会の意図を忖度して資料を非公開にしているとしたら、それこそ大問題だと思うのだが。
本作を見ると、少人数(十人以下)のチームを特定のテーマに最低でも数ヶ月専従させるというのが調査報道の基本だと思うのだが、これができている日本のメディアがどれだけあるのだろうか。あるテーマが盛り上がることによってアドホックに取材班が設置されることはあるのだろうが、常設となるとどうだろうか。
ネタはスクープを出せるところに集まるというのは昨今の週刊文春の報道を見ていてもわかるところだが、本作でもそれを示すような描写がある。ボストン・グローブ側に情報提供する被害者団体のリーダーが、「一度は黙殺され、今度もまた黙殺するのか」的な言葉で記者に迫るシーンがあるのが印象的だ。ネタを出す側も覚悟がある。「ここなら書いてくれる」という信頼、それが次のスクープにつながっていくのだろう。
あとはやはり「神父ばかりがなぜこういう行為に及ぶのか」について、答えが示されなかったことだろう。映画としてはしょうがないが、報道としては、劇中で心理学者の発言から独身制が問題であると暗に匂わせつつも、しっかりと切り込んだようには見えなかった。本当はやっているのかもしれないが。
(追記)取材する際の「説得のスキル」については非常に参考になった。相手の正義感に訴えたり、社会正義を訴えたり、脅したり、だまって聞いたり、相手を慮りつつたたみかけたり、この辺りの説得を自然に出来ることが必要なのだろう。
- 映画としての本作
概ね見やすい映画で、硬派のテーマをうまうエンターテイメント仕立てにしていたと思う。記者という人種が日常的に行っている営み(地道な聞き込み、時にドアを閉ざされる、公開資料の綿密な分析、複数のソースからの裏取りなど)はとても生々しく描かれていたと思う。簡単にネタ手に入りすぎやろーと思ったことがないわけではないが、実際には相当な苦労があったと推察される(願わくば証言を断る虐待経験者の描写も欲しかった)。聖職者年鑑を延々閲覧して出てきた数字が、統計的に予測された児童虐待をしていた聖職者数とほぼ一致するシーンは素晴らしいの一言。
構成として不満なのは、そもそも行われていた報道と何が違うのかがよくわからないまま物語が進むことだ。一部の神父の件は何年も前に報道されていて、それと比べた新規性がどこにあるのか最後の方までよくわからなかった。冒頭で「何を目指して調査報道をしているのか」をもう少し明確に示したほうが観客には親切だと感じる。あとは編集局長のキャラ説明が不十分なところだろうか。なんかいきなり縁もゆかりもない奴がやってきて、頭だけは切れるんだけど、結局脇役のままで終わってしまった。ここは何かしらもう少し説明があっても良かったと思う。
アカデミー作品賞とはいえ、宗教に付随する問題という日本では馴染みの薄いテーマだったこともあり、客の入りはあまりよくなかった。カソリックの教会がこれだけのスキャンダルを抱え、しかもそれを組織的に隠蔽していたということの重みを我々がどれだけ実感を持って理解できるかというとなかなか難しい気もする。
あと弁護士やら裁判所やらにがんがん切り込んでいくマーク・ラファロ演じる若手記者の演技が実に良かった。「こういうのあるあるー」というのばかりで実に良かった。
(なにしろ映画館で見たので一度しか見ていない。うろ覚えの部分も多々ある。思い出したらまた追記します)
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