映画「クーリエ:最高機密の運び屋」メモ

久しぶりに映画館で新作を見た・・・のだが、大いに外れであった。「ブリッジ・オブ・スパイ」を見た人であればかなり落胆するのではないか?

 

結論:残念の一言。カンバーバッチが投獄されてげっそり痩せる「役者魂」だけがフォーカスされそうなカンバーバッチのための映画。おそらくこの映画を撮る条件がカンバーバッチ主演だったのではないかと思えるくらい。何もかもが中途半端。

 

(以下ネタバレだらけ)

 

・うまくいくばかりがいいスパイ映画ではない。バッドエンドだってあっていい。それだけに、ペンコフスキーが逮捕、処刑されたという史実を知るものにとっては、その事実をどう捉えて映画として昇華させるのかにはやはり関心が向く。それだけに、ペンコフスキーは「ナレ死」したのが本作最大の汚点。ペンコフスキーをそれなりに存在させると自動的に主役になってしまう。それなのにクーリエを主人公にしようとするからめちゃくちゃになっている。

 

・ペンコフスキーをナレ死させるのであれば、初めから彼の家族など描かない方が良かった。所詮は冷酷なスパイの世界。ペンコフスキー逮捕後の動静が明らかになっていないのをいいことに、カンバーバッチとの「心の交流」みたいな茶番を描くのは興ざめである。別に心の交流を描いてもいいのだが、一緒に飲みにいくとか娘にプレゼントを上げるとか描写がありきたりすぎて「ただの友人関係を越えた命を託し合う仲」になった印象は全く持てないまま物語は進む。

 

・このタイトルでカンバーバッチ主演の映画を作るのであれば、もっとクーリエに絞ったストーリーにすべきだったろう。実際はカンバーバッチ演じるクーリエは派遣前、英情報機関に相当の訓練を受けていたようだが、本作では「俺の知り合いにいいやつおるわー」みたいなノリでとんとん拍子に素人としてリクルートされる。冷める。いくらなんでも適当すぎる。私なら、クーリエのリクルートから行動確認、バックグラウンドチェック、訓練を緻密に描いた上で、何も知らされずに個人として敵国で行動する恐怖を一人称で描き、MI6だのCIAだののお偉いさんが世界情勢の分析をするくだりを排除して、「個人としての末端のスパイの何も知らされない恐怖」だけを描く。CIAのエージェントすら不要である。

 

キューバ危機の出現と回避にペンコフスキーが果たした役割は大きいが、本作ではキューバ危機の描写が中途半端すぎる。やるならクーリエやペンコフスキーの動きとサイドバイサイドでどう絡み合っているかを描くべきだ。獄中にいる時にわからないという設定はそれでいいのかもしれないが。

 

・本作の設定で興味深いのは、2人が周囲にオープンな関係であったにも関わらず情報の受け渡しをしていた点だ。この部分に関する逮捕後のクーリエの弁解は、過去の場面と突き合わせる形でもっと緻密に行われるべきだろう。

 

・クーリエが在監中にペンコフスキーや妻と面会したのは本当なのだろうか。クーリエの自伝がある以上、懐柔策としてそういう面会が設定されたことはおそらく事実のようには思えるが・・・。