お前はただの現在にすぎない―テレビになにが可能か

TBS闘争を契機に同社を退社しテレビマンユニオンを創立した萩元晴彦、村木良彦、今野勉の3名によるテレビ論の古典的名著を読みました。1953年にテレビ放送が開始されてから15年余、技術的にも方法論的にも依然メディアとしての方向性が定まらない段階にあったテレビの中にいた彼らが、過熱する左翼運動に揉まれながらも「テレビとは何か」を問い続けた記録です。


お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か (朝日文庫)
萩元 晴彦 村木 良彦 今野 勉
朝日新聞出版
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TBSの労働組合が資本や権力からの放送の自由をテーマとして闘争を続けていた最中、萩元をはじめとするディレクターたちはそのような運動からある種一線を画して「表現手段としてのテレビは何か」を問い続けていました。「わたしのトウィギー」や「わたしの火山」といった非常に斬新で前衛的なフィルム・ドキュメンタリーを制作・放送していた彼らは、当時のテレビを取り巻く状況を徹底的に相対化していきます。

(萩元)今度の闘争は放送の自由を守る闘いといわれてますが、守る闘いではなくて、むしろ攻めとる闘いだと思っています。闘争というからには敵がある訳で、敵が何かというと、我々は、政府自民党とか資本とかいうそういう外部の敵の存在をはっきり認めた上で、むしろ内部の敵と闘うことが我我の本当の闘いのひとつだと思っています。内部の敵とは、ぼくらの内にある仕事に対する或いは人生に対する後衛的な考え方一切をひっくるめたものです。たとえば説明的映像、サラリーマン的自己規定、公正中立の幻想、ニュースエリートの感覚、教条的闘争、良心的番組を守れというスローガン、スポンサーからの圧力という自己弁解、絵になる・サマになるという考え方、中途半端な連帯、テーマ主義、パターン化した方法、テレビ芸術という意識、現在不在のニュース、視聴率万能と軽視、良き時代迄堪えて待てという発想……(中略)あり得ないことですが、もし仮に放送が全く自由になったときに、放送が現実に正しくコミットして本当の意味で放送の機能を果すようなものを作れるかどうかという問いかけをしなければいけない。(本書, p113-114)


当時のテレビの表現から労働闘争までありとあらゆるテレビの側面を一度徹底的に批判した上で、彼らが問い続けたのはテレビがどうあるべきかということであり、その一つの答えとして彼らが導きだしたのが「中継の思想」でした。現実をありのままに画面に収め中継する、空間的に離れた場所を同時的にそのまま接続する・・・時間の枠に囚われることもなく、意図的に公正中立を演出することもなく、表現者としてのテレビマンが見た「ただの現在」をそのまま伝えるものこそがテレビであるというのが彼らの根底にあった主張でした。*1

(村木)テレビジョンはフィクションもノンフィクションもひっくるめてすべてドキュメンタリーである。ドキュメンタリーそのもの。かくて、ぼくのテレビジョンにとって次の仮説が採用される。テレビジョンは<時間>である。(本書, p49)

(萩元)テレビは"絵"でなく時間であると思います。今のように三〇分、六〇分で時間を切り売りしている番組編成自体を変えなきゃならない。だいたい毎日決まった時刻にテレビ・ニュースがあることがおかしい。新聞だって毎日必ず発行されるのは本当はおかしいはずです。報道とはそういうものではありませんか。(本書, p76)


「テレビとは現在そのものである」という主張を展開し続けた彼らは本書の最後に十八の言葉を残しています。

・テレビは時間である。―移り変わりゆくそのこと。終わりのなさ。
・テレビは現在である。―あと戻りのなさ。予定調和のなさ。整序の拒否。視る人・視られる人同士の、超空間での<時間の共有>。
・テレビは液体である。―ちょん切ることのできない流れ。省略のなさ。残り滓・痕跡を含むすべて。
・テレビは生理である。―歴史学によらない人間。生物学による人間。反応の直接性。思想の根底。
・テレビはケ(日常)である。―生活そのもの―送り手にとっても受け手にとっても。俗。聖なるものとの出会いまでの厖大なディテイル。日付のあるドラマ。
・テレビはドキュメンタリーである。―断片。ほんもの。投げだされたもの。偶然。必然を導きだすもの。必然を暴露するもの。
・テレビは大衆である。―何ものでもなく、何ものかであるもの。その直接的表出。
・テレビはわが身のことである。―刻々の情念、刻々の生活、刻々の思想、刻々の生、刻々の死―わが身の刻々。
・テレビはジャズである。―魂の即興。私の魂。民衆の魂。演奏そのもの。その時そのもの。生活からの滲出。ジャズとは―V章の冒頭に書いた。
・テレビは目で噛むチューインガムである。―ガムを噛む―実践でもなく非実践でもなく、実用でもなく芸術でもない。
・テレビは第五の壁である。一の壁、二の壁、三の壁、四の壁、その四番目を取り払ったのが額縁舞台、映画セット。五番目の壁のつけ加え。
・テレビは窓である。―覗けば見える。覗かなくても見えている。考えれば見える。考えなくても見えている。
・テレビは正面である。―私の目には世界は斜には映ってこない。対面する=正面。
・テレビは対面である。―出会いの瞬間=生の瞬間。誰かと誰かの出会い。誰かと誰かの出会いに出会う私。
・テレビは参加である。―見ることでの参加、見ないことでの参加。出演することでの参加、出演しないことでの参加。映ってくるものと自分とが時間を共有することでの参加。包囲することでの参加。占拠することでの参加。
・テレビは装置である。―演劇は肉体ひとつ、映画はカメラとフィルム、テレビは、占拠される可能性として、希望と恐怖の施設。
・テレビは機構である。―合理的、組織的、五冠的、無署名的=テレビマンは身分制を拒否(するはず、せねばならぬ)。
・テレビは非芸術・反権力である。―即ち、装置による表現。現在による表現。民衆による表現。表現とは即ち私。装置による私。現在による私。民衆による私。


あらゆる資源的制約を棚に上げて根本から「テレビとは何か」を問い、実践しようとした3名の姿勢それ自体はおそらく今のテレビから失われてしまったものなのかもしれません。資源的制約からは逃れ得ないのは確かですが、そこで問いかけることを諦めているようにしか見えない今のテレビにはやはりどこか物足りないところを感じるのは事実です。


一方で、彼らは問い続けること自体に重きを置きすぎてしまったようにも見えます。本書の大半は「テレビとは何かを我々は問わねばならない」というマニフェストでしかなく、それに対する回答と実践が説得的に提示されるところまでは到達していないのではないでしょうか。テレビマンユニオン創設後の活動を追ってみても、「中継の思想」「現在としてのテレビ」という意味で成功したのかどうかは疑問です。さらに言うなら、特に最後の十八の言葉を読むに、彼らが出した回答はそもそも回答になっていないのではないかとすら思えます。その「回答のなさ」こそがテレビというものを端的に現している、と言われてしまえばそれまでですが。




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*1:そもそも本書の構成自体が、当人達の主張、識者へのインタビュー、労組内部の集会の議論の模様、各種発言の引用、象徴的なニュースなどをある程度時系列に沿いつつもごたまぜに並べたという形になっていて、まさに「中継の思想」を体現していると言えます。