「挙国一致」内閣期における内務省土木系技術官僚

政党内閣が崩壊し挙国一致内閣が成立していった1930年代の政治状況の中で、内務省の土木系技術官僚たちはどのようにして自らの利益を実現しようとしていたのでしょうか?そこには、土木事業における技術的合理性を理想としつつも、利益実現のために政治と関わらざるを得なかった彼らの姿がありました。


若月剛史「「挙国一致」内閣期における内務省土木系技術官僚」『東京大学日本史学研究室紀要』第十六号, 二〇一二年三月, pp.29-43
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多くの予算が軍部に割かれていた中で、自らの政策的要求を実現する回路の開拓に技術系官僚たちは苦慮していました。軍部は必ずしも官僚の応援団とは言えなかったからです。震災復興事業もあって1920年代に大量採用された技術系官僚たちは、財政の悪化に伴うポスト削減により人事の停滞に直面します。彼らは「法科偏重」の批判を展開しましたが、それを実現せしめる政治的回路を持たず、その主張が日の目を見ることはありませんでした。政党内閣期に土木局の事務官であった岡田文秀は、そのような人事の停滞の中で技術が政治に近づかざるを得なくなっていく現状を批判して、「技術は政治や便宜、事情論によつて左右すべからざることを本質とし、科学の基礎の上に厳然たる存在を持つべきもの」であると主張し、技術的合理性によって公共土木事業が実施されていくべきであるとの理想論を展開します。しかし彼の理想とは裏腹に、技術官僚たちはさらなる予算削減、人員削減に曝されます。そしてそれに対抗するように彼らは、様々な形での政治への接近を強めていくのです。


1932年に景気対策の一環として実施された時局匡救事業により一時的に状況は改善します。土木技師や土木技手の定員が増員され、また予算の増額も行われました。しかし、土木系技術官僚たちは不満を隠そうとはしませんでした。同事業は3年の時限的措置であり、大蔵省は財政措置を恒久的なものとはしたがらなかったのです。高級官僚、国会議員、県知事等を委員とする諮問機関・土木会議による答申を通じて、土木系技術官僚たちは大蔵省の予算措置に影響を与えようとしますが、政治的に強制力を持たない同会議の提言が実現することはありませんでした。1934年には、1930年に設立された土木協会内務省都道府県庁に在職する土木技術者の利益団体)が予算措置の復活を政治家に対して陳情しましたが、これも実現することはありませんでした。これらの失敗の背景には常に、軍部の軍事費要求の増大に伴う他分野における大蔵省の予算減額措置の影がありました。


最終的に彼らの要求(予算措置の復活)が実現したのは、自然災害を背景としていました。1934年に起きた室戸台風の被害対策のため、継続的なものを含む予算措置の復活が実現したのです。しかしそれは自らの要求を実現する政治的回路を確立したというよりも、まさに「天災の恩恵」があってこそのものでしかありませんでした。筆者はこの時期の土木系技術官僚たちの政治への関わり方を評して「試行錯誤を繰り返していた」としつつも、その運動の在り方に特徴を見出します。当時の土木官僚集団は、その内部において「中央ー地方」「河川ー道路ー砂防」といった様々な軸での対立を抱えていました。そのような背景を持ちながらも、政治に対して要求を伝えるために糾合して利益を主張せざるを得なかった彼らは、道路や河川といった個別の分野ごとに利益集団を形成することなく、「土木技術」という専門性を媒介にして利益集団を形成し政策要求を行いました。


政党内閣崩壊後、官僚たちは政策実現回路としての政党からは離れていったとの理解は早計であると筆者は指摘します。挙国一致内閣期においてもなお、官僚たちは政策実現回路の確立に四苦八苦し、依然として政治家達との距離を密接に保っていたのです。


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