日露戦争と日本在外公館の"外国新聞操縦"

1904年、日露戦争開戦。極東の小国が大国ロシアに挑んだ戦争の遂行にあたって必要とされたのは軍事力だけではありませんでした。主として戦況に関する報道に日本の意思を反映し、また黄禍論の拡大を防止することを目的として、各国に設置された在外公館を通じたメディア工作が積極的に行われていたのです。外交史料館所蔵の数多の外交文書をもとに、日本の「パブリックディプロマシー」の一端を描き出した本を読みました。



日露戦争と日本在外公館の“外国新聞操縦”
松村 正義
成文社
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開戦後、特に欧州とアメリカにおける対日世論の改善を目指し、外務大臣小村寿太郎は矢継ぎ早に手を打ちます。在外公館長に対して、各国における報道内容を報告すること、その内容に日本の真意に沿わないものがあった場合の反駁を行うこと、声明文の掲載、金銭の授受を通じて報道を誘導すること、などを指示する電文を発したのです。特に、日英同盟を結んでいたイギリスには末松謙澄、アメリカには金子堅太郎といった大臣級の外交官を派遣し、対新聞工作のてこ入れも図っています。


露仏同盟を結んでいたフランス等における工作は至難を極めましたが、筆者が引用する外交文書記載の報告によれば、各国における対日世論(新聞報道)は日本軍の連戦連勝という背景もあって好転の一途をたどりました。金銭の授受を通じた報道内容の誘導は言うに及ばず、場合によっては倒産しかけた新聞社を買収したり、現地国籍を持つ名誉領事を動員したりするなどして懸命の努力が行われていたのです。例えばドイツに関していえば、医師フランツ・フォン・シーボルトの息子、アレクサンダー・フォン・シーボルトに依頼してドイツ各紙への声明文の掲載や内容訂正の要望を出させるなどの工作が行われていました。また、外務省の工作対象は欧州やアメリカにとどまらず、南米やオセアニア、中国においても行われていました。戦中の対外報道工作は、当時の日本が持っていたあらゆる外交資源を世界的に総動員した戦いでもあったようです。


本書では膨大な史料を引用することで外務省本省と在外公館とのやり取りが詳細に描き出されており、外交官出身の筆者の緻密な努力には頭が下がるところです。しかしながら、工作の結果としての掲載記事に関する情報は全て在外外交官の報告に基づくものであり、直接記事を参照した形跡は見当たりません。また、外交文書以外の史料を用いた分析も皆無です。本書をもって日露戦争時の日本の対外新聞操縦の全貌を描き出したものと位置づけるのは早計であり、膨大な外交文書を「日露戦争時の対外新聞工作」という文脈のもとに各国別に整理した史料集として読むのが適切なのではないでしょうか。各国の新聞アーカイブの状況にもよりますが、このテーマについては現地の紙面に実際どのような形で記事が現れたのか、また各国の新聞メディアが当時どのような位置づけをなされていたのかということに関する分析が不可欠であるように思います。*1




*1:今日でいう「ジャーナリズム」が当時存在していたのか、というのは大きな疑問の一つです。反論文掲載を例にとっても、少なくとも外交電文による報告上は成功している場合が多いのです。しかしながら、掲載先の新聞が今日でいう自由なジャーナリズムを標榜するものだったのか、それとも単なる掲示板的な機能を持つものに過ぎなかったのかなどについては検討の余地があるのではないでしょうか。