光学機器国産化と日英関係

2017年7月25日、カメラ・光学機器製造メーカーのニコンは創業100周年を迎えました。ニコンの前身「日本光学工業株式会社」は、双眼鏡や測距儀といった戦争に必要な光学兵器を国産化するために、旧帝国海軍や財閥が主導して誕生した国策会社でした。光学兵器を輸入していた日本は、いかにして国外からの技術移転を進めたのか。そこには、ドイツの第1次大戦敗戦というターニングポイントがありました。


山下雄司「光学機器国産化と日英関係ーバー&ストラウド社・日本海軍・日本光学を中心として」『明大商学論叢』第92巻第4号, pp73-105, 2010年3月
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第二次世界大戦後、ニコンキヤノンといった光学機器メーカーが世界的に躍進した背景には、戦前・戦中に軍需を背景として蓄積された技術や人的資本があるとされてきました。一方で、筆者に言わせると、その蓄積がいかにしてなされたのかに関する研究は乏しく、本稿はその一端を明らかにしようとするものです。

  • イギリスからの技術移転


英・グラスゴーの光学機器製造業者・バー&ストラウド社(以下B&S社)は創業以来、日本海軍を海外市場最大の顧客としていました。創設間もない日本海軍に主に測距儀を納入していたものの、技術移転や現地生産には消極的でした。極東では独・ツァイス社との競争があまり激しくなく、現地生産の実施といった形で相手国に譲歩する必要がなかったことが背景にあると筆者は指摘します。技術移転という意味ではかろうじて日本人技術者の在英研修を受け入れるにとどまっていました。渡英したのは海軍の技術将校たちで、受け入れは1930年代まで続きましたが、イギリス海軍の横やりが入り終焉を迎えます。


第1次大戦の勃発に伴う欧州からの光学機器輸入途絶に危機感を抱いた日本海軍は、光学機器の国産化に向け国策会社の設立に動きます。中小光学機器メーカーを糾合し、三菱財閥の助力を得て、1917年7月25日、「日本光学工業株式会社(現・ニコン、以下日本光学)」が誕生しました。その定款に「測距儀、潜望鏡、顕微鏡、望遠鏡、反射鏡、其ノ他光学的諸機械器具、硝子及ビ擬宝石ノ加工、製造並ニ之ニ要スル材料ノ製造」とあるように、ガラスやレンズといった部品から、光学機器までを一貫して生産することを目指した「総合的光学企業」だったのです。


B&S社で研修を受けた海軍将校の一部は日本光学に移籍し、イギリス仕込みの製造技術をもとに光学機器の国産化に邁進するはずでしたが、その技術力は必ずしも高くなく、日本海軍の要求に応えられるものではありませんでした。B&S社に赴いて技術を習得するという限定的・断片的な技術移転では、砲弾の射撃に必要な測距儀を生産することすらできなかったのです。

  • ドイツからの技術移転


国産化が進まないことに危機感を抱いていた日本光学や海軍は、独・ツァイス社からの技術移転を目指し、技術者の招聘に向けた動きを1920年ごろから活発化させます。ツァイス社は当初、軍用光学機器の製造権供与・現地生産については同意したものの、民生品や光学ガラスの現地生産については自社の対日輸出にとって不利だと考えていたため、合意には至りませんでした。


その状況を大きく変えたのが、第一次世界大戦におけるドイツの敗北でした。ベルサイユ条約によりドイツ国内での軍用光学機器開発・製造が禁止されたため、研究開発能力の維持に危機感を抱いたツァイス社は一転して日本との提携に舵を切ります。国土が荒廃し、経済的に不安定なドイツから日本に技術者を派遣し、海外での技術開発・保持に活路を見出そうとしたのです。日本光学に派遣された8名の技術者は、レンズの加工から光学機器の設計に到るまで、包括的な基礎技術力を与えることになります。


しかし、日本光学国産化に向けた取り組みは、第二次大戦終結までに十分に実現したとは言えませんでした。軍用光学機器の設計開発・製造は1933年ごろには概ね可能になったものの、質・量ともに日本海軍の需要には対応できませんでした。海軍は依然として海外からの輸入品に頼り続けていたのです。そのまま終戦を迎えた日本光学は民生品の生産を主軸に据え、1948年に小型カメラ「ニコンI型」を開発して世界に冠たるカメラメーカーとしての道を歩み始めるのです。



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