開国への道&北太平洋の「発見」

某ゼミで担当文献だったので読みました。江戸期日本の開国の歴史、それは果たしてどこから始まるのでしょうか?ペリー?いえ、そうではありません。1853年のペリー来航からさかのぼること60年、話はロシアから始まります。日本開国の歴史におけるロシアの存在意義・・・そしてそもそもロシアはなぜ日本に来たのか?そこにはグローバルな交易競争に取り込まれんとする日本の姿がありました。


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  • ロシア、太平洋、そしてラッコ


1580年代からシベリア開拓を始めたロシア、その目的はアジア地域で南下し、中印との交易路を開拓することにありました。そこで重要になったのが交易品であるラッコの毛皮です。それまで内陸で狩られていた黒貂に代わり、海洋で採取できるラッコやアザラシの毛皮は当地の商人たちにとって重要な取引対象でした。彼らに巨利をもたらしていた大陸内部のキャフタ(恰克図)での清との取引にとどまらず、彼らは日本との取引を志向していきます。1778年には早くも、イルクーツク商人シャバリンが根室に来訪し交易を求めます。その際には松前藩に交易拒否&来航禁止を通告されてしまいますが。


無論、毛皮の取引を拡大するという意味で北太平洋での交易・版図拡大を狙ったのはロシアだけではありませんでした。英クック、仏ラペルーズらの探検は日本周辺の測量を行うという意味で重要な意義を持っていたのに加えて、太平洋各地に交易拠点を築くという点でも重要でした。特にイギリスは、1789年に起きたヌートカ湾事件*1において北太平洋におけるスペインの覇権を打ち砕いて自由貿易環境を確立したのを契機に、北太平洋、東アジアへの進出を拡大していきます。ヌートカ湾事件以降、列強は太平洋において毛皮交易を拡大するための活動を活発化させます。日本に来航したロシア船、アメリカ船、あるいはイギリス船はまさにその最前線の活動を象徴するものでした。彼らの日本に対する通商要求は、グローバルな交易競争の一端だったのです。



1792年、著名な漂流民大黒屋光太夫を送還するために、アダム・ラクスマン根室ついで函館に来航します。とはいっても光太夫が漂流したのはさかのぼる事10年前のことでした。足掛け10年、光太夫の帰国を現実のものにしたのは、これもまた列強の交易競争でした。アダム・ラクスマンの父、キリル・ラクスマンは、ペテルブルクに来た光太夫を見て「漂流民の送還を口実に日本と交易交渉を開始できないか」と考えました。ヌートカ湾事件以降同種の事を考えていたイギリス、また既に日本と通商を行っていたオランダの間で、光太夫の「争奪戦」とも言える状況が一時出現します。いずれの国も日本との通商の糸口を求めていたのです。


最終的にエカテリーナ2世の許可を得、アダム・ラクスマンは光太夫送還の旅に出ます。来航したラクスマンとの邂逅は、太平の世にあった幕府にとって青天の霹靂でもありました。中蘭朝鮮との外交交渉経験を応用して会見・交渉を行い、通商の禁止と来航の禁止という「国法」は維持しつつも、最終的に「長崎に来航しても良い。そこで通商が許可される可能性もある」という意味を持つ「信牌」をラクスマンに与えます。これはまた、幕府が「日本は鎖国している」という自己認識を強化する機会でもありました。


その12年後、今度は若宮丸乗組員の送還を名目としてレザノフが来航します。オホーツク地域の独占開発権を有する「露米会社」も設立したレザノフは、ラクスマンが獲得した信牌を携えて長崎へと向かいます。しかしながら、長崎におけるレザノフの扱いはあまり良いものではありませんでした。半年も待たされた挙げ句通商は拒否され、乗組員を返還した後に帰国せざるを得なくなります。この腹いせか、帰国の途にあったレザノフは部下に命じて千島・樺太の日本人居留地を攻撃させます(文化露冦事件)。平和的な交渉(幕府側に言わせれば「宣諭」)を繰り返した両国ですが、ここに来てその関係は悪化の一途をたどる事になります。


文化露冦事件直後、日本側は「反撃」の一環として測量のため千島を南下していた海軍少佐ゴロヴニンを捕縛します。またロシアもそれに対抗して付近を航行していた高田屋嘉兵衛を拉致します。互いに捕虜を抱える中で、両国は情勢の沈静化に動く事になります。そこで大きな役割を果たしたのは、幕府・松前藩の意図も十分に把握していた嘉兵衛でした。嘉兵衛は、「ロシア側がレザノフの部下の行為を私的な海賊行為であると認めさえすれば日本はこの事を問題にしないだろう」とロシアに進言します。それを受けたロシアはイルクーツク長官名で書状を出し、両国は交渉の末互いの捕虜を交換します。同時に日本は、通商拒否と来航禁止を改めて徹底する事に成功します。


ラクスマン、レザノフ、そしてゴロヴニン事件・・・日本は(オランダを除けば)初の「西洋」との交渉経験を積み重ねていきました。ロシアを含む様々な国の来航の駆動因となっていた毛皮交易は1800年代前半には乱獲によりその終焉を迎えますが、この経験はその後捕鯨基地・蒸気船基地獲得を目的としたアメリカその他との交渉にも繋がっていきます。

  • ロシアから開国史を見る意義


日本の鎖国・開国に関する歴史研究は、その多くがその端緒を日本とオランダとの交渉、日本と中国との交渉、あるいはペリー来航に求めるものでした。しかし、1700年代後半において、漂流民送還、通商交渉、俘虜交換といった様々な局面で日本と直接的な交渉をした国はまずロシアであり、日露関係史を切り口に開国史を語るところに平川新『開国への道』の意義が見いだせると言えます。


また、そのロシアが何故日本に来たのか、その問いに答えを与えてくれるのが木村和男『北太平洋の「発見」―毛皮交易とアメリカ太平洋岸の分割』だと言えるでしょう。当時の列強の間で行われていたグローバルな交易競争の中、対スペインで強硬策をとった英首相小ピットの姿勢が北太平洋の「自由化」を促進し、ひいては列強の「日本詣で」を誘発する事になります。日本の開国への道は、当時の国際情勢と密接な関連を持っていたのです。




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*1:トルデシリャス条約においてスペイン領の一部とされていたバンクーバー島西部のヌートカ湾にイギリス船が侵入、スペイン軍艦に拿捕された事件。その後スペインに対し首相小ピットを中心とするイギリスが強硬策(賠償の要求と北太平洋の無主地化の要求)に出、フランスやロシアの支援を得られなかったスペインはイギリスの要求を全面に受け入れる結果となった