福地源一郎研究序説――東京日日新聞の社説より

とある講義で必要があって読みました。明治期の有力紙の一つ、東京日日新聞主筆であった福地源一郎の活動を概観した論文です。穏健かつ現実的に立憲主義と協調外交を提唱していた福地、その活躍と挫折とは?


五百旗頭薫「福地源一郎研究序説――東京日日新聞の社説より」『日本政治史の新地平』吉田書店, pp.43-88


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1841年に長崎に医者の息子として生まれた福地は、漢学や英語を学び、岩倉使節団にも同行しました。維新後は自分で新聞を創刊したり大蔵省に勤める等しましたが、最終的に1874年、政府系の東京日日新聞に入社します。以降、主筆・社長として「漸進主義」(国会開設、条約改正、殖産興業といった点について日本の実態に即した漸進的な進歩を目指すこと)を唱え、東京日日新聞の理論的支柱として活動していきます。その活動は言論分野に留まることはなく多岐に渡り、実業界での活動(東京商業会議所や東京株式取引所の開設)、東京府会での政治活動もまた注目されます。本論分はそんな福地の「漸進主義」の射程を測らんとして執筆されたものです。


筆者は福地の漸進主義の特徴としてまず、その地方自治へのまなざしを指摘します。福地は急進的に国会開設を目指す民権派に対抗し、まずそれに先立って地方民会を設置し、実績と経験を積むべきだと論じました。立憲主義や国会開設とは別に、維新前から日本に会った自治の伝統をまず基盤にすべきだとしたのです。1875年の大阪会議の結果、政府が漸進的な立憲政体確立を目指して地方官会議(県令、府知事らを招集し地方行政をめぐる諸問題を議論した会議)の設立を宣言すると、東京日日新聞は歓迎の意を示します。将来の国会開設の布石として、地方官会議が暫定的な役割を果たすことを期待したのです。その後地方官会議を経た国会開設への道筋は挫折しますが、福地は区会、県会、民会そして国会という段階的な道筋を提唱し、それを漸進的に歩んでいくべきだと主張します。筆者に言わせればその福地の言説は「安定感がある。統治者の保守的姿勢と民権派との間での対立の連鎖を回避し、無理のない経路で国民の政治参加を拡大しようとする意図が表明」されたものでした。


地方官会議を足がかりにした漸進的な国会開設への道筋が挫折して以降も、福地は漸進主義的な改革を志向し続けます。渋沢栄一らが主導していた東京会議所に参画し、それを足がかりにした公選民会の設立を目指して活動していきます。また中央集権の弊害を危惧し、地方分権の推進も主張していきました。また政府による過度の民生への干渉については反対の旗幟を鮮明にし、政治的自由に先立って達成すべき「人文ノ自由」の大切さを説き、国家の基本的機能(民刑法の制定、軍備、警察、衛生、金融等)以外の部分については人民の自治に委ねるべきとします。このような間接的、漸進的なアプローチは日日新聞の外交論にも垣間みられます。ロシアとの国境交渉に関しては漁業権を確保できれば良いという現実的な路線を主張し、また朝鮮についても戦争回避を是とした穏健な解決策を提示したのです。


以上のような活動を続けてきた福地の存在感は、記者として従軍し天皇に拝謁して戦況を報告する栄誉に浴した西南戦争を契機にその絶頂を迎えます。新たに設置された東京府会の選挙に出馬・当選した福地は、府県会が各地域における予算・徴税の在り方を決めるという意味での自治を促進していきました。東京という自治空間で政治的にも存在を増していた福地は、1879年に来日したグラント前米大統領の歓迎イベントを企画し、さらには同氏滞日中の天皇の上野公園への臨幸を依頼しようとします。外国の賓客が日本にいる間に天皇の臨幸が実現すれば、市民が天皇に臨幸を請願・実現できるという「自由ノ精神」を彼我に見せることができ、「君主圧制国」を脱していることをアピールできるという狙いがそこにはありました。様々な批判を受けながらもグラント滞日中の天皇上野臨幸は実現をみます。福地は人民総代として渋沢とともに祝辞を述べ、日日新聞はこのイベントが「君民同治」の方向性を内外に示した「間接ノ利益」は計り知れないと礼賛します。


その後、国会開設論の高揚とインフレの昂進という外部環境の変化により、福地の漸進主義は存在する余地を失っていきます。すみやかな国会開設を目指す国会期成同盟とそれに抗う政府との間で、福地は憲法の制定というイシューを設定することにより漸進主義の生息域を確保しようとしました。しかしその憲法制定優先論は民権派から国会開設を遅延させるものだという批判に晒され、また国会開設の建白や請願も政府に拒否されたことで、日日新聞の漸進主義は先鋭化する対立に飲み込まれていきます。経済的にも各取引所における紙幣の下落によりインフレが昂進し、経済状況が悪化の一途をたどったことが国会開設の議論に拍車をかけていきます。財政の困難に対処するためには国を挙げての議論が必要だとの民権派の主張に、日日新聞もまた先鋭化する彼らと道を同じくせざるを得なかったのです。そして北海道開拓使官有物払下げ事件における政府批判と明治十四年政変以後の政府支持という社論の変節を経て福地は没落を余儀なくされるのです。


福地の主張は必ずしも実現はせず、政治的には失意の人生であったことは否めません。しかし筆者の指摘するところによれば、府県会の重視や地方分権の推進、現実主義的な外交論等に現れるように民意や国益を「間接」に表象する工夫に長け、「閏位」の機関に歴史的使命を全うさせんとした福地の思想は、日本社会が必ずしも殖産興業・立憲・条約改正において理想通りの結果を得られない「不満足の時代」を乗り切るための演出に貢献したとも言えます。民主主義と代表制、そこに存在し続ける「間接性」が問題とされ続ける中で、筆者は福地のような政論家が退場を余儀なくされたことを惜しみつつ論を終えます。



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