治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その3)

その1では治安維持法の成立過程について、またその2では成立後40年代までの拡大過程についてまとめてきました。本記事(その3)では、1940年以後の治安維持法について第6章及び終章をもとにまとめます。戦時下の治安維持法はどのようなものだったのか?戦後に残したのは何だったのか?そして、「自由と民主主義を守るためには何が必要か」という問いに対して一連の過程が示唆することとは?


  • 1941年の改正


1925年の成立、1928年の改正、そして1930年代の膨脹・・・治安維持法の中身に再び大きな変化が見られるのは1941年の改正でのことになります。起草に関わった司法官僚・太田耐造が「名は法律改正であるが、其の実質は全く新たな立法と云うに足る大改正である」と評したように、それは大幅な変貌をもたらすものでした。1941年の改正は現場からの要請を背景としていました。人民戦線事件に関しては裁判所が無罪判決をくだすこともあったため、起訴不起訴の基準を明確化してほしいという思想検事たちの要望があったのです。それに加えて、警察の強引な取り調べの防止や、裁判所の令状を不要とする検事の強制捜査権の確立も目指されました。また社会的な背景としては、日中戦争の長期化に伴う厭戦気分が共産主義伸張に繋がることへの恐れや、右翼団体の勢力拡大への危惧もありました。


司法省が検討した改正案では、それまで目的遂行罪などを運用して取り締まってきた宗教団体などに対する取り締まり条項の明確化、罰則の強化、刑事手続きの特例付与(令状なしの召喚や勾留、二審制の導入による審理の迅速化など)、予防拘禁の導入が具体的な改正点として盛り込まれています。しかし改正の際に最大の問題となったのは、近衛文麿を中心とする新体制運動でした。ファシズムをヒントに立案された統制経済体制を主張していた大政翼賛会の成立に対し、観念右翼や財界から「幕府的存在」「共産主義」との批判が繰り広げられたのです。すなわち、統制経済体制の推進は治安維持法が禁じる「私有財産体制の否定」につながるのではないかとの疑念が呈されたのです。改正案の議論の過程で、平沼内相の「翼賛会は公事結社(政治活動の認められない結社)である」「私有財産制度の制限と私有財産制度の否定は異なる」という見解が表明されたため翼賛会は治安維持法の適用対象から外れますが、近衛の権力基盤としては挫折を余儀なくされます。


以上のような紛糾は伴ったものの、改正治安維持法は可決成立し、1941年3月10日に公布されます。

  • 正治安維持法の運用


検挙者数と起訴者数から見ると、30年代に比べて減少が見られると筆者は指摘します。特徴としては、民族独立運動と宗教団体の検挙が増え、全体的に起訴率が上昇し、科刑が長期化して執行猶予が減ったことがあげられます。また検挙の半分以上が目的遂行罪による摘発でした。太平洋戦争下における治安維持法運用にあたって著名なのは、ゾルゲ事件です。一連のスパイ活動の結果検挙されたゾルゲと尾崎秀実は、治安維持法、国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法違反で死刑を宣告されます。治安維持法違反事件としては唯一死刑が科された事例ですが、直接の理由は国防保安法第4条2項の国家機密漏洩罪でした。治安維持法の観点からすれば、ゾルゲの罪状はコミンテルンのために活動したとする目的遂行罪にあたるものでした。


また改正治安維持法は新興宗教団体に対しても猛威を振るいます。宗派を問わず小規模新興宗教に対する摘発が相次ぎ、連合国のスパイ行為や非戦・反戦運動の疑いをかけられたキリスト教系宗教団体も積極的に取り締まられました。反戦思想すらも「国体を否定する」ものとして扱われたのです。宗教団体系の事件では検挙後早期に転向を表明する者も多くいましたが、創価学会創始者牧口常三郎は転向を拒否して獄中死します。改正の目玉の一つであった予防拘禁も実施されます。全国唯一の予防拘禁所が豊多摩刑務所内に設置され、被拘禁者の隔離と改善が図られました。予防拘禁者の数は大戦末期の時点でも65名にとどまり大規模に運用されたとは言い難い面もありますが、非転向者の隔離は法治主義と人権の観点から見て大いに問題を孕んだものでした。


太平洋戦争の勃発後は、治安維持法以外の法律が猛威を振るった面もあると筆者は指摘します。開戦直後にできた「言論、出版、集会、結社等臨時取締法(通称:臨時取締法)」がそれであり、明治期に出来た出版法等に基づく言論規制をさらに強化するものでした。流言飛語に対する罰則規定もあり、それに依拠して東条政権は憲兵を動員して反戦的言論の取り締まりを行いました。同法違反による検挙者数は、例えば43年の数字では治安維持法によるそれを圧倒的に上回っています。


そして終戦間際には治安維持法最後の事件ともいえる横浜事件が起きますが、1945年9月に日本は無条件降伏し戦前日本の秩序維持の指針であった治安維持法はその存在意義を揺らがせます。


終戦直後も内務省東久邇宮内閣は共産主義者を牽制するために治安維持法の温存を企図していました。しかし現場ではそれに基づく検挙が控えられ、45年10月にはいわゆる「人権指令」が出されて東久邇宮内閣は一連の取締法の撤廃を迫られます。後続の幣原内閣は10月13日に治安維持法の廃止を決定し、20年に及ぶ歴史の幕を閉じることになります。


東京裁判で検事役を務めた国際検察局のオランダ代表は、

治安維持法は本来、共産主義運動を取り締まるために制定されたことはほとんど疑いない。しかし、その規定は余りに漠然としているため、あらゆる運動、あらゆる意見の発表を取り締まるために用いられ得る


治安維持法を評しています。


しかし、治安維持法的な法律は戦後も存在し続けました。GHQによる団体等規正令や暴力主義的破壊活動を規制する破壊活動防止法がそれにあたります。破防法共産党の非合法活動に備えるという終戦直後特有の事情のもとに成立しましたが、今では組織的テロを防ぐための法律という顔を持つに至っています。その適用実績は戦前に比べると極めて少ないものですが、今後も慎重な運用が求められると筆者は指摘しています。


当初治安維持法は、政党政治のもとで成立しました。しかし1930年代に入って政党は力を失い、治安維持法を制御できなくなるのみならずテロから身を守るために同法に保護を求める有様でした。では政党は何をすべきだったのでしょうか?筆者は、そもそも暴力や革命となる基盤となっていた結社を取り締まろうとして成立した治安維持法が、本来は暴力から保護されるべき言論へと対象を広げた事に問題があると指摘し、共産主義思想よりも不法な暴力や国家主義運動によるテロを取り締まるべきであったと主張しています。


冒頭の「自由と民主主義を守る上で何が必要か」という問いに対して筆者は、「現代社会においてまず尊重されるべきは個人の言論であり、そのためには思想、出版、結社の自由はみな大切である。そして個人の言論を不当に抑圧することは方法を問わず許されない。そのような結社はやはり規制されるべきである」との極めて常識的な結論に達しています。誰もが字面では分かっていることではありますが、治安維持法の辿ってきた歴史はこの「民主主義にとって当たり前のこと」が政党内閣下であっても容易に弾圧され得るという歴史の暗部を我々に示してくれているのではないでしょうか。

  • 付記:特定秘密保護法案との関連について(この箇所は本記事執筆者の見方です)


今週にも参議院で採決が見込まれている特定秘密保護法案について、一部で治安維持法になぞらえて批判する見方があるようです。本書序盤に書かれているように、治安維持法はそもそも共産主義思想の拡大を防ぐために結社を取り締まる法律として成立しました。特定秘密保護法案のように機密漏洩を防止するものとしてはむしろ、この記事で紹介したような軍機保護法や国防保安法の方が内容や位置づけ的に近いのではないかと思います。「治安維持法」という言葉が持つ戦前期・戦中期の暗部を想起させる負の力に頼り、安易なラベル付けをして現在審議中の法案を批判するのは法案の中身に対する真摯な議論とは少し毛色が違うものなのかもしれません。


無論、治安維持法から得られる示唆もあるでしょう。本書(の紹介)で見てきたように、共産主義思想の拡大を防ぐために結社を取り締まる、という治安維持法の当初目的はなし崩し的に拡大解釈・適用されていきました。それは一重に、「国体変革」や「朝憲紊乱」といった条文中の定義の曖昧さが官僚組織に拡大解釈の余地を与えてしまったことや、政党政治が軍やテロリズムに萎縮し政争に明け暮れて堕落したことの結果でした。目的や内容の現法案との類似性というよりも、定義が曖昧な法律が政党内閣下で成立し、それを政治家がコントロールできずに官僚が恣意的に拡大運用を続けていった結果悲劇を招いたという過程こそが、現在議論されている法案を批評する時に我々が得られる示唆であるように思います。



治安維持法小史 (岩波現代文庫)
奥平 康弘
岩波書店
売り上げランキング: 120,364


特高警察 (岩波新書)
特高警察 (岩波新書)
posted with amazlet at 13.12.04
荻野 富士夫
岩波書店
売り上げランキング: 46,496


思想検事 (岩波新書)
思想検事 (岩波新書)
posted with amazlet at 13.12.04
荻野 富士夫
岩波書店
売り上げランキング: 20,072