外交儀礼から見た幕末日露文化交流史――描かれた相互イメージ・表象

日本の開国史を見るとき、北方において地理的に接触があったロシアとの交流を振り返ることの重要性が近年指摘されています。そのような文脈の中で、政治史的な側面よりも文化や表象、儀礼といった側面に重きを置いて分析を行った本を読みました。国交がなく人の往来もほとんどなかった両国の交流、それはまさにお互いにとって「宇宙人との邂逅」であったと言えるのかもしれません。共によって立つ基盤がない中で、外交儀礼の段階から一つ一つ積み上げを図っていった苦闘とはどのようなものだったのでしょうか?



ラクスマン来航時に松平定信が発した対露対策の基本方針は「礼と法をもて妨がん事かいなし」というものでした。後者の「法」については藤田覚の研究が著名ですが、前者の「礼」については必ずしも重要視されてきませんでした。しかし、当時東アジアにおいて国際関係を規定していたのは「礼」に基づく華夷思想であり、またヨーロッパ世界に取り込まれていたロシアにとっても特に貴族レベルにおいて他者とのコミュニケーションの際の礼儀作法が重要であった中で、礼に関する分析は必須のものであると筆者は指摘しています。「ロシア使節と幕府の代表が対面する際の距離はどれほどで、どのような着衣で、どのような姿勢で対座したのか、あるいはまたする必要があったのか。こうしたことを指標にして当時の日露関係を考察」するという筆者の研究は、外交儀礼が単なるお飾りではなく、文化的背景が大きく異なる他者同士が交渉する上で極めて重要な要素であったことを我々に示唆します。


本書第3章から第7章においては、ラクスマン、レザノフ、プチャーチンの来航時における会談と外交儀礼、そしてまた民衆との交流が文字史料だけでなく図像史料にも立脚して詳細に描かれています。


漂流民・大黒屋光太夫の送還を名目に松前に到着したラクスマンは、幕府が派遣した交渉担当者との会談前夜にその形式に関する事前協議に臨みます。そこで問題となったのは表敬のお辞儀の仕方(日本は座礼、ロシアは立礼)や靴の着脱(日本は屋内土足厳禁、ロシアでは人前で靴を脱ぐとマナー違反)といった礼儀作法であり、交渉の結果双方がそれぞれの形式で表敬することに合意します。なお、当時江戸参府を許されていた出島のオランダ商館長は将軍に対して座礼で平伏しており、対等の関係をもたない通商国であったオランダの扱いと、対等の関係を要求するロシアとの扱いの差が端的に現れていると言えます。礼儀作法ひとつとっても、日本式の「礼」のもとで構成される華夷秩序の揺らぎが垣間見えるのです。


ラクスマン来航から12年後、ラクスマンに与えられた「(長崎)入港の信牌」を携えたレザノフが来航します。幕府内部における政治勢力図の変化とそれに伴う対外政策の変更もあり、レザノフに対する扱いは必ずしもよいものではありませんでした。レザノフに対する訓令23項目中、過半数の16項目は儀礼に関する注意を促す(あらゆる点で日本のそれに従うべしとする内容)ものでしたが、レザノフ自身は会見・交渉時の儀礼に関して日本側と丁々発止のやり取りを繰り広げます。特に問題をはらんでいたのが、幕府側が交渉担当に指名した大名とレザノフとの会見時の距離、会見時の帯剣の可否、そしてまた座礼・立礼の別でした。1点目に関しては畳一畳分の距離で通詞とレザノフが合意しますが、通詞に与えられた指示はそれよりも長い距離を念頭に置いたものであり、通詞の越権行為が確認できると筆者は指摘します。帯剣の可否については会見直前に取り外すという算段になったものの、いざレザノフが会見場に足を踏み入れると奉行・宣諭使の背後に太刀持ちが控えており、レザノフは扱いの不公平さに愕然とします。座礼・立礼については、レザノフが「足を曲げられないというのにどうしろというのか、四十過ぎの人間に足を曲げろといっても遅い」と押しきり、立礼に落ち着いています。


レザノフに対し幕府は「新たに通商を認めないという国法」に変化はないと通告します。レザノフが持参した国書・贈答品についても、それに対する返礼をロシアに持参することができないと非礼になるとして受け取りを拒否します。そもそもレザノフへ「ゼロ回答」がなされた背景には江戸における政策決定がありましたが、儀礼に関する一連のトラブルはその通告のショックを増幅させるものであったのかもしれません。外交儀礼に関するトラブルは後の日本の他国との交渉にも影響を与えています。礼を尽くした穏便な交渉では埒が明かないことをレザノフの事例から学んでいたペリーは、武力を背景にした強硬な交渉も辞さない覚悟で対日交渉に臨む事になるのです。


レザノフ来航後、日露の間では数十年に渡りハイレベルでの交渉がありませんでした。しかしペリー派遣を核とするアメリカの対日交渉の動きを察知したロシアは、北方領土の国境画定問題を名目に日本との交渉再開を企図、プチャーチンを派遣します。突如として浦賀に来訪したペリーに対し、プチャーチンはあくまでも日本の「国法」を守って長崎へと来航します。投錨後も礼を重んじた対応を見せたプチャーチン率いるロシア使節に対する日本のイメージは、アメリカに対するそれとは大きく異なり好意的なものだったと筆者は指摘します。そしてその延長線上には、「ロシアを頼んでアメリカを防ぐ」という反米親露論の出現もみられるのです。


プチャーチンの時もまた、会見時の礼儀作法に関して仔細な交渉が行われました。座り方については、ロシア側があくまでも椅子への着席を主張し、ロシア側のみ持参した椅子に着席する事で落ち着きます。靴の着脱に関しては、帆布でカバーをつくりそれを靴の上にかぶせるという折衷案に落ち着き、またお辞儀についてはそれぞれの慣習(日本は座礼、ロシアは立礼)に従う事となります。プチャーチンは日本側の体面を重視しつつも、「この民族の習慣によれば、前例が将来のルールとなる」ということを理解した上で、交渉を重ねて儀礼に関する妥協点を見出していったのです。交渉の結果、プチャーチン最恵国待遇を含めた通商開始に前向きな返答を受け取る事になります。そして下田会談と日露和親条約を経て、日本はロシアとの通商関係を開始します。


筆者は日露開国交渉における外交儀礼をめぐる摩擦を評して「日露は互いに相手に他者性を意識した。それにより日本は鎖国日本を発見し、ロシアは西洋ロシアを再認識した。そのうえで、日本は開国へと自国像を変化させ、ロシアはロシア・オリエンタリズムの特性(東洋と西洋の架橋)を認識していった」と指摘します。礼儀作法の面からして既存の華夷秩序とは異質の存在を意識させられた日本、一方、かつてはヨーロッパに対して「非ヨーロッパ」国家としてのアイデンティティがあったにもかかわらず、日本と触れ合う中で儀礼的な側面でも自国の「ヨーロッパ性」を強めていったロシア・・・外交儀礼における差異と交渉は、両国の自己イメージを明確に出現・認識させるものでもあったのです。


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