軍機保護法等の制定過程と問題点

今から約70年前、満州事変、日中戦争と国際情勢が緊迫する中で、軍事上の秘密の保護に関する法制度の整備もまた活発に進んでいました。一連の法整備の過程とその問題点を指摘した論文を読みました。


林武、和田朋幸、大八木敦裕「研究ノート 軍機保護法等の制定過程と問題点」『防衛研究所紀要』 14(1), p87-109, 2011年12月
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  • 明治期における軍事機密保護法制の整備


日本における軍事機密の保護法制は、明治初期の段階から整備されていきました。1871年明治4年)に制定された海陸軍刑律第70条には既に「軍機を漏泄し、軍情を発露する者、又記号暗号の類を開示し、機密の図書を伝播する者」などは「皆謀反を以て諭す」と規定され、軍関係者の機密漏洩は処罰される体制が整っていました。1888年には戦時の機密漏洩防止の適用範囲を軍人以外にも拡大するといった改正が行われれ、戦時における軍事機密保護体制は概ね整うことになります。日清戦争が終わると、諸外国の対日軍事諜報が活発化します。平時・戦時を問わず軍事機密を保護する法令の整備に迫られた当局は、1898年に軍機保護法案を帝国議会に提出、同法案は一度審議未了になった後、翌1899年の帝国議会で成立をみます。以上の過程を経て、戦前日本の防諜法制は概ね整ったことになります。


  • 軍機保護法の改正


1937年には、軍機保護法改正案が提出され、わずか3ヶ月で成立します。日中戦争が全面戦争化するなかで、杉山陸軍大臣が「時局の関係は至急本法案の成立を必要」と趣旨説明で述べたように、緊迫する国際情勢への喫緊の対応が大義名分となったのです。同改正案は、制定から40年が経った軍機保護法が時勢にそぐわない事への対処を目的としていました。その審議過程で問題となったのが、「軍事上の秘密とは何か」を規定した第1条に関するものでした。同条で、軍事上の秘密の種類範囲を陸海軍大臣の命令をもって定めることとなっていたのが問題化したのです。例えば升田憲元衆議院議員は「死刑まで科するような此重大法規を、其範囲を勝手に命令で而も勅令ならまだしも、単純なる大臣の命令で左右し得る」ことの危険性を指摘しています。


最終的に本案の審議にあたっては、「本法において保護する軍事上の秘密とは不法の手段に依るに非ざれば之を探知収集することを得さる高度の秘密なるを以て政府は本法の運用に当りては須く軍事上の秘密なることを知りて之を侵害する者のみに適用すべし」という付帯決議が採択されます。秘密の定義が依然曖昧で、大臣の命令によって容易に左右され得ることを危惧してのことでした。


  • 軍用資源秘密保護法の制定


1939年には軍用資源秘密保護法が制定されます。前年に制定された国家総動員法に関する秘密事項のうち、軍機保護法の及ばない軍用資源に関する情報漏洩を防ぐためにできた法律でした。総力戦体制に鑑みて指定する秘密について広範な分野を対象としていた同法についても、その運用のあり方が問題となりました。取り締まりの行き過ぎを危惧した議員に対し、政府は「人を見て『スパイ』なりと云うような感じを起こさないように努むる」と答弁したりしますが心配は消えず、「予め国民一般に本法の精神及内容を十分能く知らしめ、又指導取締の任に当る者に対しましても、同様出来るだけ之を周知せしめて、適正なる措置を執る必要がある」との要望が出されます。


  • 国防保安法の制定


そして1941年には国防保安法が制定されます。軍機保護法や軍用資源秘密保護法が対象としない、広範囲にわたる国家の重要機密を保護する法律の必要性に鑑みたものでした。その第1条は「国防上外国に対し秘匿することを要する外交、財政、経済其の他に関する重要なる国務に係る事項」と国家機密を定義していました。ここでもまた秘密の定義と指定の方法が問題となります。本法においても何を国家機密として指定するかは主務大臣の主観的判断に委ねられていたからです。また、「何を秘密とするか」を明らかにすること自体が諸外国に機密の一端を察知せしめることになるとの危惧から、具体的な内容範囲については法令中には明記されていませんでした。また本法はそれまでの軍機保護法等に比べて厳罰主義をとっており、検事に対し広範囲の強制捜査権を与えていたことから、人権蹂躙の可能性についても指摘されました。


これらの危惧に配慮して、近衛首相は「是が運用に付きましては、極めて慎重な考慮を必要とする」旨の答弁を行い、柳川司法相も「本法立案の精神たる間諜防止、国家機密の漏洩を予防する以外に之を他の目的に利用することは一切致さぬ」と明言していましたが、最終的に国防保安法は原案通り可決されます。


  • 取締の行き過ぎ、検挙数と有罪率


内務省外事警察概況』によれば、1937年の改正軍機保護法以降は検挙数はある程度ありながらも有罪率は極めて低いという状況が続いていました。当局も運用の行き過ぎを自覚していたらしく、1940年には憲兵司令部本部長が「憲兵の防諜措置を適正ならしむべき件」とする通牒を出します。その中では、「各隊における実情を観るに動すれば法規、通牒の趣旨の把握十分ならざる為、其の解釈取扱妥当を欠き不必要に民業を圧迫し、『行過ぎ』の形となりて現われあり、その顕著なる例は関係諸法規指導要領書等には何等抵触することなく一般常識上に於ても差支えなしと認めらるる照会等に対し、只単に国情調査の疑いあり、或は防諜上適当ならずと断定し回答を拒否若くは保留」といった現状認識が示されています。


本論文では、例えば上記のような情報公開の不徹底といったような問題が生じたことを受けて、法令の趣旨の周知徹底が必要であったと締めくくられています。しかしながら本論文の構成から察するに、法令制定時の大臣レベルでの「運用に慎重を期する」といった答弁は、現場レベルの運用についてはあまりあてに出来るものではなかったという実像もまた見えてきます。また、定義が曖昧な法律に対して現場が予防的に対応した可能性や、有罪には至らない検挙が国民に及ぼした萎縮効果などについても検討が必要に思えます。





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