日本における科学史の社会的基盤と社会的インパクト

現代における知的営み、それはその外部としての「社会」を想定することなしに語る事はできません。メディチ家レオナルド・ダ・ヴィンチを養っていた時代は遥か昔に終わり、現代の学術研究は筆者の言う種々の「社会的基盤」を伴うことなしに営まれることは不可能でさえあると言えます。そんな時代にあって、科学史家たちは何を目指して知の歴史を紡げば良いのでしょうか?


伊藤憲二「日本における科学史の社会的基盤と社会的インパクト」『科学史研究』第269号, 2014年4月, pp7-13


科学史研究2014年4月号
科学史研究2014年4月号
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コスモピア (2014-04-28)


筆者は「科学」という概念が包摂する対象が多様である事を指摘した上で、狭い意味での「科学」(=いわゆる自然科学のこと?)を対象として科学史を営む方向性には否定的な立場を取ります。科学史の外部にあり境界確定された「科学」を想定することにより、他者としての科学史の側から科学を批判的に検討する事のメリットは認めています。しかしながら、科学史が対象とする知的営みの中に科学史そのものも含めることにより、科学史という知的営み自体を自己分析・自己批判の対象とすべきであるというのが筆者の結論です。


筆者は、ある学術分野が十分な知識生産の社会的基盤(知識生産に資源を供給する社会的な仕組み)を備えるためには、投入された資源に見合う社会的インパクトが不可欠である場合が多いといいます。科学史の社会的基盤を整えるために必要な投資は巨大科学のそれに比べて圧倒的に少ないことは認めつつも、科学史研究が社会的インパクトの創出を諦めてなおその基盤を整える事は不可能であるとし、現在科学史が持つ社会的基盤を維持・向上させるためには社会的インパクトの強化が不可欠であると主張します。


第二の選択を踏まえて、科学史研究は自らの社会的基盤を整えるに見合う社会的インパクトの創出に際して、どのような方向性を目指すべきなのでしょうか?筆者は「基礎ー応用ー社会実装」といったような古典的リニアモデルが教科書的には主張されてきたことを認めつつも、学術研究がもたらす社会的インパクトの道筋は複数かつ複雑であると主張します。


科学史研究がもたらす社会的インパクトを「学問知の生産とその発表」「一般向けの科学史知識の発信」「科学史の専門知を用いた政策・司法・政治に関わる活動」「科学史の専門知や専門技能を用いた大学等の教育機関における人材育成」の4つに区分する筆者は、その内実と可能性について検討していきます。検討の詳細は割愛しますが、筆者はいずれの分野にも可能性があるとした上で、自身が所属する総合研究大学院大学先導科学研究科生命共生体進化学専攻における取り組みを4番目の区分に分類される実例として紹介しています。


筆者は本務校での経験を踏まえ、4つの分野の中でも特に人材育成に科学史が果たす役割を重視しているように思われます。そこには「学術研究と社会との関係ということは、極めて重要な現代的課題であり、それについて理解している、研究者と社会人の育成は極めて重要」であるという"社会的意義"があると同時に、アカデミックポストの増大といった形での科学史自体の社会的基盤の強化にもつながるという可能性があります


科学史的な素養を獲得する事を通じて「知識生産に対する批判的な視座」を養い「自らの営為に対して自省的な思考をすることのできる人材」を育成すれば、それは「知識生産の社会的インパクトと社会基盤の関係を適正化するのに貢献すること」につながると筆者は言います。その文脈において科学史研究者は自らの社会的役割を確立することができると思われる一方、そういう営みに携わる上ではやはり科学史をも含む様々な知的生産のあり方を対象とする科学史を志向することによって自らの社会の中における位置づけに自覚的になっていく必要があると筆者は結論づけています。

  • コメント


筆者の論を参照するに、有用なものとしての科学史、それを志向することはもはや現代においては避けられないのかもしれません。私自身の一つの危惧としては、人材育成の「ためにする」科学史は真の科学史足り得るのかということがあります。人材育成とは離れたところで純粋な歴史叙述としての科学史を修めた上で、その純粋科学としての科学史をゆらがせることなく人材育成に科学史の知見を生かすというのは一見器用に分割可能であるように思えます。しかしそういう流れが主流となった時に、そのために育成される科学史家が生み出す科学史研究に歴史研究そのものとしての価値はあるのでしょうか。いやもちろんあるのでしょうが、教育のためにするという方向性が強化されるが故に反射的な影響もあるのかな、とふと思いました。


科学史研究2014年7月号(No.270)

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