第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業―犬丸秀雄関係文書を基に―

今や世界中から電子化された論文をダウンロードできる時代、学術知の一形態である論文は容易に越境し流通しています。しかし遡ること70年前、戦争の勃発により日本への知の移動は大きな危機に直面していました。「科学封鎖」により知の還流を妨げられた学界の訴えを受け、海外から知の細い糸を繋ぐために二つの事業が開始されます。それらの事業は単なる戦争協力に留まらず、基礎研究の発展や戦後の教育をも見据えたものだったのです。


水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業―犬丸秀雄関係文書を基に―」『科学史研究』266, 2013年, pp. 70–80



  • 科学封鎖の影響


1941年以降、対日封鎖の拡大により日本国内における海外学術雑誌の入手はほぼ途絶しました。独ソ戦の開始によりシベリア鉄道経由の輸送が困難になった結果、1941年5月頃にはドイツの学術誌が入手できなくなり、さらに1941年10月頃には米英の学術雑誌も得られなくなります。当時の日本学術振興会の調査によれば、英学術誌Natureは1941年9月27日発行の第3752号を最後に国内での所蔵が途切れています。戦争により知の流入を妨げられた研究者たちは、文部省に対策をとるよう訴えていきます。在外研究者の協力も得て、文部事務官であった犬丸秀雄「科学論文題目速報事業」を立案、戦争により閉ざされた知の移動を復活させるべく活動していきます。


  • 科学論文題目速報事業


1942年8月の計画開始当初の速報対象雑誌はドイツにおける理学、工学、医学、農学分野の約100冊であり、対象誌は東京帝大の各教室からの申し出などにより選定されました。在外の研究者が重要論文の題目をまとめた『論文題目』、そこから選んだものを要約した『論文抄録』、他の郵送資料をまとめた『論文別報』の3形態を通じ、国内の各研究機関に数千部が配布されたといいます。当初から研究者の意見を反映させる仕組みが整っていた同制度への需要は多く、『論文題目』に目を通した研究者から延べ131件に及ぶ抄録作成依頼が寄せられています。文章は電信を通じて発信され、電信不可能な図面等はスイス経由での郵送が企図されました。


1943年に入ると、立案者である犬丸自身が渡独し、事業へのてこ入れが図られます。シベリア〜カスピ海〜トルコを経てドイツ入りした犬丸は、ドイツにおける学術関係者とのネットワーキングに勤しむ*1とともに、欧州各国を歴訪して学術雑誌の購入を行いました。ソ連当局の没収を懸念してシベリア鉄道経由での輸送は困難だと考えられていましたが、スイス経由の外交便での郵送は成功裏に実行されました。この結果、当初の電信経由での情報伝達から、郵送による学術雑誌の郵送が本格化していきます。例えば1944年1月の到着雑誌リストによれば、理学系24、工学系32、医学系28、農学系5、その他2の雑誌が国内にもたらされています。その中には、日本におけるペニシリン研究の発端になったとされるベルリン大学のマンフレート・キーゼの論文を所収したものもありました。また同年には、それまで収集の対象外だった人文科学系の文献も対象に含められます。学術研究会議の人文科学部門設置や、各大学からの法制・経済・民族等に関する文献入手の希望もあって、購入費の増額と対象分野の拡大が実現したのです。


科学封鎖の中で海外の学術雑誌を国内へもたらすという重要な役割を果たしたこの事業でしたが、ドイツにおける戦況の悪化により1945年3月頃に終焉を余儀なくされます。犬丸は中立国での事業継続を目指すも実現せず、最終的にソ連軍に軟禁され日本へと送還されることになります。


  • 翻訳事業


もう一つ国内への知の還流を維持する上で行われたのが、文部省による翻訳事業でした。1943年7月に始まった同事業では、海外の自然科学分野の書籍の翻訳を行うことで海外における学術知見の摂取を容易にし、修業年限短縮の最中にあった大学における教育を充実させる事が意図されていました。ここでもまた大学をはじめとする研究者からの要請が果たした役割は大きく、「翻訳を熱心に督促するのは主に大学当局」であったとの記録が外務省に残されています。書籍の選定も各分野を専門とする研究者(翻訳調査委員)により行われ、基礎的な科学教育や幅広い分野の研究に役立つ書籍が数多く選定されました。なお、翻訳調査委員第5部(科学一般)の委員長は桑木科学史学会長(初代)であったため、第1回の選定については科学史分野の文献が数多く選定されています。


3回の書籍選定を通じ、計76冊の広範な分野に渡る書籍の翻訳が目指されました。しかし翻訳完了に至ったものは多くはなく、第1回、第2回で選定された書籍のうち実際に翻訳完了にまで至ったのは17件に過ぎませんでした(1944年7月の段階)。しかし同事業は必ずしも特定の軍事研究に資するという科学動員としての側面だけを有していたのではなく、一般的な科学振興を意図していたのは明白であると筆者は主張します。その現れとして、終戦までに出版されなかった文献についても、戦後文部省科学教育局のもとで翻訳・出版されていったという事実が指摘されています。


  • 戦争と科学


本論文で扱われている事業はその実態に鑑みると、「研究者の要望に沿いながら、文部省が(中略)科学の戦力化からは程遠い施策を拡充していった」ことの現れであると筆者は評します。1943年に東条内閣において閣議決定された「科学研究の緊急整備方策要綱」においては戦争遂行を科学研究の唯一絶対の目標とすることが宣言されましたが、この要綱は必ずしも額面通りに行われず、一般的な科学振興を目的とした事業が大戦末期まで継続されていったのです。





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*1:犬丸の一連の活動は必ずしも独→日という一方向的な知の伝達には留まりませんでした。ハイゼンベルクに未刊行論文の写しを依頼した際、先方から日本の学術雑誌の入手を希望され、犬丸は科学局長宛に送付を促す電報を送っています。その後雑誌の授受が行われたかは定かでありませんが、湯川秀樹から提供されたハイゼンベルク宛の資料が犬丸に送付されたとの記録が残っています。