アメリカにとっての天皇制という”謎"〜映画「終戦のエンペラー」〜
SYNODOS主催の試写会&トークショーで7月27日公開の映画「終戦のエンペラー」を見てきました。このような機会を下さった編集部の方々、トークショーに登壇された小菅信子さん、片山杜秀さんには感謝申し上げます。以下、簡単ではありますが映画の感想を記しておきます。ネタバレしまくりなので、それが嫌な方はご覧にならないことをお勧めします。
「終戦のエンペラー」
(監督:ピーター・ウェーバー、7月27日公開予定)
1945年8月、日本が連合国に降伏し、第二次世界大戦は終結した。まもなく、マッカーサー元帥率いるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が上陸。日本は米軍の占領統治を経たのち、再び息を吹き返した。誰もが知っている、歴史の1ページである。 だが、そこには、1ページではとても語り尽くせない、驚きの真実が秘められていた。すべては、マッカーサーが部下のボナー・フェラーズ准将に命じた、ある極秘調査から始まった。この戦争の真の意味での責任者を探せ──。それは日本文化を愛するフェラーズにさえ、危険で困難な任務だった。やがて、連合国、マッカーサー、フェラーズ、そして日本の元要人たちの思惑が激しく交錯するなか、謎がひとつひとつ解き明かされていく──。
なぜ、開戦直前に首相が交代したのか? パールハーバー直前の御前会議で語られたこととは? 戦争を始めたのは本当は誰なのか、終わらせたのは誰か? 玉音放送前夜のクーデターとは? その放送に込められた天皇の想いは? 連合国側の本音と、マッカーサーの真の狙いは? マッカーサーと天皇が並ぶ写真が写された理由とは? そして、崩壊した日本の新たなる礎は、いかにして築かれたのか──? 日本の運命を決定づけた知られざる物語が今、始まる。(公式サイトより)
※以降ネタバレあり
- あらすじ
公式サイトの解説にもあるように、物語の主軸はマッカーサーに「天皇の戦争責任」を調べるよう命じられたフェラーズ准将が天皇を囲む政府要人に尋問を繰り返し、「有罪か?無罪か?」を明らかにしようとしていくところにあります。戦前にも調査で来日したことのあるフェラーズは知日派のエキスパートとして描かれ、物語のもう一つの軸である戦争で行方知れずになった日本人恋人アヤの捜索も繰り広げられます。
日本語の公式サイトや試写会後のトークショーでは日米の「和解」や「共感」、「日本の再建」といったキーワードに重きが置かれていたのですが、私自身は違った感想を抱きました。一言で言うなら、この映画が描こうとしていたのは「天皇制というアメリカにとっての"謎"」だったのではないでしょうか。
占領軍の一員として来日したフェラーズは、マッカーサーの密命により、東条英機や近衛文麿をはじめとする戦中の政府要人に「戦争の責任者」、「天皇の戦争責任」について尋問を繰り返します。しかし得られる回答はどれも玉虫色のものばかり、東条は無言でリストの近衛の名前に○をつけ、近衛は「何でも白黒はっきりするものではない。そもそも武力による破壊はお互い様だし、対外侵略だって欧米がやっているのを真似しただけだ」ととりつくしまもありません。宮内次官の関谷貞三郎に至っては「天皇は開戦の決定にあたっていかなる役割を果たしたのか?」と問われて「陛下は明治天皇の歌を詠まれたのです。」と言い、御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を詠唱する始末。
日本側の登場人物いずれもが「君には分からないことがある。責任・有罪・無罪などという概念では括れない日本の精神性は理解できないだろう」と言わんばかりの超然とした態度でフェラーズの前に立ちはだかります。苛立つフェラーズは居酒屋でちゃぶ台をひっくり返し、天皇を有罪と判断するレポートを執筆しようとします。
ストーリー上流れを変えたのは宮内大臣・木戸幸一の証言でした。ポツダム宣言受諾を決定した御前会議の様子を、木戸はフェラーズに向かってつぶさに伝えます。木戸は「陛下は(ポツダム宣言受諾について)『私に同意してほしい』と述べられたのです」と繰り返します。それを聞いて心揺れ動くフェラーズですが、結局天皇の開戦・終戦における役割や、日本人の天皇に対する意識や国家観、そして日本の政治システムにおける天皇の役割を証拠とともに論証することは出来ませんでした。レポートを見たマッカーサーが「証拠がないじゃないか」と言ったのに対し、フェラーズは「証拠はありません。でも有罪にする理由も見当たりません」と返答します。物語冒頭で「解き明かされる」ことになっていた”謎”は、少なくとも白黒はっきりという形では明らかになることはなかったのです。
作中では、フェラーズが日本人の精神性を理解しようと努めるシーンが繰り返し描かれます。戦前に来日した際、フェラーズの恋人であったアヤの叔父で(海軍?)軍人と思われる「鹿島大将」に講釈を受けたり、アヤの助言を受けつつ日本兵に関するレポートを執筆したりします。そこで描写される日本観〜滅私奉公、天皇に対する崇拝、忠誠と服従、日本独自の価値観〜は、片山さんに言わせれば「これまで多くの海外の日本人研究者が提示してきた日本観」そのものでした。そして片山さんも言うように、これらは最後まで物語の答えとして整理されることもなく、ただ五月雨的に提示されてそれで終わります。
フェラーズは「我々が行うのは報復ではなく正義だ」と言います。しかしそれは"アメリカ式の手続き"(情報を詳らかにし責任の所在を明らかにする、国民が自ら意思決定する、裁判という手続きを通じて有罪・無罪を明らかにする)に基づいた正義であり、そしてフェラーズはこの手続きに従って正義を実行することに最終的には失敗します。
謎を謎のまま受け入れたと思われるフェラーズに対し、マッカーサーの反応は極めてプラグマティックなものです。反共の防波堤としての日本の安定を保つための天皇制維持の必要性、本国の有権者たちの天皇を処刑せよという願望、自らの大統領選出馬に向けた日本再建という実績の確保という様々な政治的思惑の中で自らの立場を冷徹に計算する側面が強調されていきます。後半部分で、大統領選に向けて宣伝用の写真を繰り返し撮影するシーンはまさにそれを象徴していると言えるでしょう。
そんなマッカーサーは、フェラーズのレポートを読んだ後、天皇との会見に臨みます。通訳以外をシャットアウトして行われた会見の冒頭、関屋の制止をあざわらうかのように、マッカーサーは天皇と握手し、ツーショット写真の撮影を敢行。その後着席を促された天皇はおもむろに立ち上がり、自らの戦争責任を認めるととれる、「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねる」という発言を行います。
このシーンは天皇個人や天皇制に対するマッカーサーの見方を変えたものとして以前から有名なものですが、私自身はこの場面のトミー・リー・ジョーンズの表情は「天皇への共感と尊敬」ではなく「自らの論理では括れないものへの驚き」と解釈しました。「自らの責任を進んで認める」というおおよそマッカーサーの予期していなかった発言をした昭和天皇に対し、マッカーサーはただただ「鳩が豆鉄砲を食らった」ような顔しかできず、ここでもまた天皇や天皇制がもつ"謎”の前に敗北するのです。
- もう一つの謎、アヤの運命
ありとあらゆる映画にラブロマンスを混ぜるのはハリウッドの十八番で、片山さんが「もういい加減やめたらどうか、そうじゃない映画も見てみたい」というのには共感するところがありました。しかしこの物語の中でのラブロマンスをそれだけで片付けてしまうのはちょっと早計な気もします。
本作の大筋のテーマは私の思うところ「天皇制、日本人の精神性という"謎"」なわけですが、アヤとの関係、その後の捜索もまた謎を解明するという意味で本筋と軌を一にしています。フェラーズが空襲目標リストからアヤの居住する地域を除外していたという"背信行為"ともとれる事実が明らかになる一方、アヤの行方は判然としません。苛立ち、通訳のタカハシに「生存者のリストはないのか!」と迫るフェラーズ、自らの家族も空襲で失ったタカハシは「死者のリストならあります」と切り返します。しかし劇中最後までそのリストがフェラーズの手元にもたらされることはありませんでした。
アヤの死は、鹿島大将宅の小さな祭壇に備えられた彼女の遺影で明らかになります。これは想像ですが、おそらく遺骨も見つからず半ば行方不明の後死亡認定した、というような死に方だったのかもしれません。あるはずの死亡者リストは最後まで出てくることはなく、アヤの人生の顛末が明示的に語られることもありませんでした。アヤとの再会を切望して止まなかったフェラーズにとってのもう一つの謎もまた、不透明なままに終わりを告げるのです。
- 天皇制という"謎"、そして和解?へ
結論として、この映画は、終戦直後の占領統治におけるアメリカ人の日本観というものについては中々うまく描写されていたのではないかと思います。そこには"謎"を"謎"のまま受け入れる日本人の精神性に対する苛立ち、あるいは嫉妬とも言えるようなものが表現されていたように思います。
「和解」や「共感」もまたこの時代の日米関係を考える上で一つの視座にはなり得ると思いますが、私がこの映画から読み取ったのは、日本人の精神性を理解しようと試み、苦しみ、そして政治の動きの中で翻弄された占領軍のアメリカ人たちの姿までであり、その先に「和解」を読み取ることは若干困難なような気がしました。
- その他
・西田敏行の貫禄ある英語が素晴らしい。もっとハリウッドいけるんじゃないか?
・フェラーズの通訳を務めたタカハシが、フェラーズの皇居訪問時の皇宮警察との緊迫したやり取りの中で機転を利かせるシーンもよかった。
・トークショーでは「この映画には悪役が一人しか居ない。フェラーズの(空襲目標選定に関する)背信行為を暴くマッカーサーの別の部下だ。彼だけが過去の詮索を行う。」という話が冒頭出ていましたが、そもそも過去の詮索という意味ではフェラーズがその最たるものであって、「報復ではなく正義を行う」としながらもそれを米国式の手続きに従って進めようとするフェラーズもまた過去の詮索を行う「悪役」に変わりはないと思います。
・マッカーサーとの会見時の昭和天皇の発言、主語はあくまでも「私」であり、天皇制そのものではありません。たとえ自らが犠牲になろうとも、天皇制自体の存続については重大な関心を持っていた昭和天皇の心中がうかがえます。
↓NYTimesに掲載されたレビュー
「The American General Who Ruled Japan」
↓公式サイトに掲載されている「原作」はこちら。