「戦艦大和の最期」とGHQの検閲

1945年4月、瀬戸際に追い込まれた連合艦隊は「天一号作戦」を計画、日本海軍の象徴である戦艦大和は沖縄への海上特攻を敢行することになります。同月7日14時23分、坊ノ岬沖で数百機に及ぶ米軍機の攻撃を受けた大和は僅かな生存者を残して海中に没しました。ここに日本海軍の水上戦闘艦艇は壊滅的な打撃を受け、名実共にその終焉を迎えます。生き残りの一人、大和に副電測士として乗り組んでいた吉田満少尉(当時)は、復員後吉川英治に勧められるままに戦艦大和ノ最期」と題した手記をまとめました。そこからはじまる吉田とGHQによる検閲との闘い・・・「歴史探偵の調査報告」とも言える論文を読みました。


山崎鹿名子, 「「戦艦大和の最期」とGHQの検閲」, 二十世紀研究 (11), 2010年, pp.91-113



  • 検閲を行った日本人たち


筆者によれば、GHQの民間検閲部隊は総勢1万人近い規模(ピーク時で8763人)であり、そのほとんどを日本人が占めていました。8132人に及ぶ日本人検閲官は、新聞、映画、書籍、放送など多岐にわたる検閲対象を精査し、対象箇所の翻訳を通じて米人検閲官の「通過」、「部分削除」、「全文削除」という判断に寄与していました。このように、現場の検閲官の判断で削除のメドがつけられ、上層部の米人士官に判断を仰ぎ最終的な判断が下されるというのが一般的なプロセスでしたが、再検閲の対象となるケースもありました。対象文献は当然日本語であり、検閲の判断において日本人軍属が果たした役割はその人数だけを見ても極めて大きかったと言えるでしょう。



  • "Yamato Case", 「戦艦大和ノ最期」と日本人検閲官の存在


吉田の手記は、当時創刊予定であった季刊誌「創元」において初出版が目指されていました。事前検閲においてはまず、"Mr. Fujii"なる人物が一次審査を行って英文の調書を作成し、米人検閲官Millerによって「軍国主義プロパガンダの理由で部分削除を以て通過」との判断が下されます。その後検閲部局の最高会議の判断を仰ぐことになり、手記は再検閲に付されました。その検閲は"S. Furuya”なる人物によって行われます。同氏はその再検閲文書において、「経験のみがかくも簡潔で印象深い異常な体験の記録を生み出すことができ、想像力によってはこのような作品のはものし得ない」として作品の文学的価値を認める一方、一貫して軍国主義的であるとの批判からは免れ得ないとし、当初の部分削除という判断を支持せず、全文削除という厳しい判断を下します。そしてこの判断が最高会議の決定を経て確定することになります。


このS. Furuyaなる人物は、これまでの研究では日系2世の米軍将校だと考えられてきました。しかし筆者は、ワシントンのナショナル・レコード・センターにある"Yamato Case"というファイルに含まれる書類のうちこれまで研究者から着目されてこなかったものに光をあてて、S.Furuyaの人物像を明らかにしていきます。



  • 吉田、白州、ウィロビー


吉田満の回想によれば、全文削除という判断を受けた彼は吉田茂の息子吉田健一を通じてGHQへの抗議を画策します。息子の頼みを受けた吉田は、白州次郎GHQのウィロビー少将のもとへ送り、それを受けたウィロビーは検閲部門に質問状を送付します。その際に検閲部門から回答された文章("Yamato Case"所収)には、

掲載禁止処分は、詩の軍国主義喚起に対する評価とは別に、その文学的価値に対する評価を行った上で、日本人専門家の意見によって上申された。専門家は東大卒の大学教授である日本人検閲官であった。


と記されており、筆者はこの回答書の内容が前述の再検閲文書における作品に対する文学的評価を指していることを根拠として、全文削除を上申したのは日系2世の米軍将校ではなく、検閲に従事していた日本人研究者である可能性を指摘します。そして、日本大学教授にして英文学の専門家であった古谷専三こそがこの検閲官であると結論づけます。


筆者は古谷が何故このような判断を行うに至ったのかについては不明であるとします。それは古谷の思想の故であったのか、あるいは米側との関係によるものだったのかは今や定かではありません。しかし、GHQの検閲部門において多数を占めていた日本人検閲官の中に単なる翻訳業務に留まらない役割を果たしていた者がいたということは、GHQの検閲政策を検討する上で「非常な驚き」であったと筆者は記しています。



  • GHQの検閲政策への示唆


前述の「日本人検閲官の役割の重要性」に加えて、筆者はGHQの検閲政策の一貫性のなさ」と「検閲結果の帰趨は作品の変化よりも検閲官の変化」にあるという仮説を提示します。


特に「一貫性のなさ」について、本記事では割愛していますが、筆者は「戦艦大和ノ最期(新潮版)」(初出の創元版の後に手が加えられ"ヴァリアント"として出版が試みられたもの)に対する検閲プロセスも分析しています。そのプロセスでは、初出版に対する検閲結果が踏襲はおろか参考にされた形跡もなく、またさらに後に検閲に付された「サロン版」に至ってはそれまでの検閲で削除されていた表現が通過したりしていました。膨大な出版物の検閲に忙殺され、まだ時期が移ろっていく中で、GHQによる検閲の実態は必ずしも一貫したものではなかった可能性があったのです。




※追記

1946年(昭和21年)終戦直後は、動員時代の過労で少し健康を悪くして休んだ。そのうちに、予科学生の一部が、予科長排斥の運動を始め、そのバックとなるように申し入れて来た者があり、それは断じてわが素志ではないと辞し、そのついでに、同予科におけるわが使命は終わったと信じて退職した。その前後、故森村先生のすすめで連合軍司令部の翻訳兼検閲員となり、日本の出版物の文学方面の翻訳に従った。1948年(昭和23年)司令部の仕事は、日本の出版物が当時の占領軍の都合の悪いものを禁止または制限するという目的のものであってきわめて非 前進的のものであった。ただ日本文学の英訳についての多少の自信を得たことは収穫であった。二年ほどでこれをやめ23年の4月、やはり森村先生のお世話で、日本大学で新設の歯学部予科教授に就任した。


古谷専三, 「わかまま者の半生」日本大学英文学会会報第15巻, 1964より


古谷氏の息子の三郎氏による本論文に関連する論考からの抜粋です。このことからも、古谷氏がS.Furuyaであり、「戦艦大和の最期」の検閲に携わっていた事はほぼ間違いないと言えるでしょう。




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