言論抑圧―矢内原事件の構図

戦前期における思想・言論弾圧事件として著名な矢内原事件(1937)を出版界の状況、大学の内部抗争、政府からの圧力といった多面的な視座から緻密に描き、現代に通じる思想的課題を提示した本。学内で陳謝することをもって幕引きが図られようとしたさなか、なぜ矢内原は辞任しなければならなかったのか?そして言論・学問の自由は何に脅かされるのか?


言論抑圧 - 矢内原事件の構図 (中公新書)
将基面 貴巳
中央公論新社
売り上げランキング: 8,344

  • マイクロヒストリーとしての矢内原事件


帝国有数の植民地政策学者であった矢内原忠雄は、そのキリスト教信仰もあり、単なる「統治者ー被統治者」関係としての植民地政策学を目指すのではなく、社会現象としての植民を科学的・実証的に捉えて帝国主義論の一つとして描く希有な学者だった。1930年代後半に時局が切迫していく中で、平和と正義を国家の理想として掲げ、そこに至らない日本の現状を舌鋒鋭く批判した論考・講演を世に送った彼は、徐々に体制との緊張関係を強めていく。


これまでの歴史叙述はいずれも、「大学の自治に対する弾圧」「キリスト者としての矢内原個人の闘争」「東京帝大経済学部内における権力闘争」「右翼勢力からの言論攻撃」といった個々の側面に単純化してこの事件を捉えてきたと筆者は指摘する。そしてそのいずれもこの事件の全貌を描き出すには不十分であり、この事件を取り巻く個々のアクターの立場や思考を当時のままに細密に叙述する「マイクロヒストリー」の手法を用いることで、多様な側面の相互関係を描き出すことの重要性を強調している。


新聞をも凌駕する影響力を持っていた中央公論などの総合雑誌」に学者が国論を発表するという戦前期独特の言論空間の存在を背景として、矢内原の論考や講演は内務省を中心とする体制に危険視されるに至った。そこでは右翼の論客・簑田胸喜からの激烈な批判も大きな役割を果たしていた。また当時矢内原が所属していた経済学部内部では苛烈な派閥争いが行なわれており、特に国家主義的な思想を持っていた土方学部長を中心とする一派の矢内原「国家の理想」論文に対する批判は厳しかった。しかしながら以上のような逆風の中でも、帝大総長・長与又郎は矢内原が陳謝することによって事態の収拾を目指す腹づもりだった。


しかし、1937年11月30日をもって状況は急展開する。木戸文部大臣、文部省幹部、そして長与総長による会談の中で、木戸が「矢内原の言動は国会にも説明がつかず、このままでは大臣辞任にすらつながりうる。矢内原辞職すべし。」との判断を示したためである。筆者はこの背後には内務省警保局からの文部相への圧力があった可能性を指摘し、また文部省側の認識として「矢内原の論考「民族と平和」は国体精神に反する」との新たな見方が示されたことが長与に対するプレッシャーになったと指摘する。


大学令その他を字義通りに解釈すれば矢内原の任免権を法的に押さえているのは総長の長与であったが、周囲に「勇気に欠ける」と評されていた長与は議会紛糾・大臣辞任からの帝大全体への影響を考慮し、矢内原一人を切ることで「大学の自治」を維持する方向に転換する。長与の意を受けた経済学部教員の大内兵衛・舞出長五郎が矢内原に辞職するよう促し、矢内原は「これ以上迷惑をかけたくない」とそれを受け入れ辞表の提出に至った。


以上は、本書でマイクロヒストリーの手法をもって詳述されている矢内原事件の過程をかいつまんでまとめたものである。本書の歴史叙述を通じて描き出される矢内原事件は、大学と政府の権力関係のみならず、当時のメディア環境、大学内部の権力闘争、関係各個人の個性・立場、右翼との関係、政府内部の権力闘争などの多様な要素が形作った流れの中で「辞職」という結末を迎えたといえるのではないだろうか。


筆者は矢内原事件から導きだされる思想的課題として、愛国心・大学の自治言論の自由の3点について論じている。


愛国心については矢内原、簑田、土方の愛国心の違いを比較することで思想的課題をあぶりだしていく。矢内原のそれは「国家の理想」と「国家の現実」に差があるとき、理想に至らない現状を批判する*1ことこそが愛国心の発露であるというものだった。一方土方や蓑田のそれは目の前に現実としてある国家をあるがままに愛するというある種盲目的なものだったとも言える。土方は理想を掲げることは否定しなかったが、一度時局が切迫すれば国家の現状を批判することはその足を引っ張ることと同義であり、それ故に慎むべきだと矢内原を批判した。


大学の自治については、長与総長の個人的資質への着目が重要である。事件に関係した人々の中では矢内原や他の大学関係者と比べて最も大学の自治に対する意識が高かった長与でさえ、矢内原の処遇に関する土方経済学部長との不一致や文部省からの圧力を前にしては、「泣いて矢内原を斬る」という選択肢を選ばざるを得なかった。筆者は大学や学問のあるべき姿として語られてきた自治や自由が、それとはある種対極に位置するとも言える総長のリーダーシップによってのみ維持され得るのではないかと指摘し、大学の自治は極めて脆弱なものだと言う。


最後に言論の自由について、それに対する抑圧をどう捉えるべきかという視座が提示される。戦前期の言論抑圧を出版業界と政府との関係に重点を置いて概観した筆者は、ジャーナリスト・馬場恒吾の言葉を(同じものを)二度にわたり引用してその特質を強調する。

私は大東亜戦争の始まる年までは、一週間に一度は新聞に、毎月幾つかの雑誌に政治評論的のものを書いていた。それがだんだん書けなくなって、戦時中は完全に沈黙せざるを得なかった。どうしてそうなったかというと、、新聞や雑誌が私の原稿を載せなくなったからである。しかしいかなる官憲も、軍人も、私自身に向ってこの原稿が悪いとか、こういうことを書くなと命じ、または話してくれたこともない。すべてが雑誌記者もしくは新聞記者を通しての間接射撃であった


この現象を一般国民の目から見るとき筆者が重要だと指摘するのは、どのような言論人が何を言っているかを注視することではなく、「どのような言論人が表舞台から消えていったか、どのような見解をメディアで目にすることがなくなったかについて、把握すること」である。馬場も、そして矢内原も「自らが沈黙を強いられていること」すら語ることができなかった。政府と一般国民との間に出版業界という主体を挟んで見たとき、政府が出版業界に加えている有形無形の圧力を通じて出現する言論抑圧という現象が認知されにくい大きな理由はまさにここにあると筆者はいう。

  • 思想史学者としての筆者


筆者のそもそもの専門はヨーロッパ政治思想史である。また博士論文においては14世紀のフランチェスコ会ウィリアム・オッカムの異端的教皇への抵抗の理論を研究している。日本や欧州といった空間的な制約を離れたとき、筆者の中で通底するテーマは「暴政への抵抗思想」である。本書以前の筆者の研究は抵抗思想の理論的側面を捉えたものが中心であったが、本書において筆者は「理論としてわかっていても現実に実践するのは難しい不正な政治への抵抗の実態」を矢内原事件を通じて考察することで、政治思想史学者としての現実へのコミットメントを果たそうとしたと振り返っている。

  • コメント


本書に詳述されている矢内原事件の全貌は、マイクロヒストリーという形での重層的な歴史叙述を通じて現れた複雑な構図である。そこには最高の責めを負うべき唯一の責任者」は存在しない。それぞれがそれぞれの意思を持って行動し、それが形作る何か(あえて「空気」とは言わない)が「矢内原辞職」という帰結をもたらしたのである。descriptionとしての歴史が果たすことが出来るのは、こういう複雑な構図をありのままに世に問うていくことなのではないかと感じる。


総合雑誌という言論空間を通じて学者がその主義主張を世に問うという営みは大正〜戦前期にその隆盛を極めたと言えるだろう。そしてそこに対する権力の抑圧は、出版業界に対する有形無形の圧力(配紙の制限、検閲担当者の指示、それを忖度した出版業界の自己規制)を通じて出現した。それに比して現在、学者が国家を語る論壇の中核を占める流れは弱まっているように思われる。象牙の塔にこもることこそが学問のあるべき姿であるとの信念以上に、大学を取り巻く環境の変化(予算の削減・獲得競争と人員の減少)や学問が持つ権威の弱体化が大きな影響を及ぼしているのではないだろうか。また、学者の側の「権力に抵抗する」「批判的な精神を持って自由に言論を行なう」という意識が弱まっていることも挙げられるだろう。


筆者はインターネット空間における匿名言論の惨状を指摘した上で、インターネットにおける自由は「多数の暴政」の温床となりうると危惧している。匿名の「蓑田胸喜」が自らの発言の責任を引き受けることもなく罵詈雑言をまき散らしている現状にあっては、我々は矢内原事件を「戦前軍国主義体制下において生じた過去の事例」と矮小化することはできないのかもしれない。


ヨーロッパ政治思想の誕生
将基面 貴巳
名古屋大学出版会
売り上げランキング: 321,585


反「暴君」の思想史 (平凡社新書)
将基面 貴巳
平凡社
売り上げランキング: 122,209


*1:これと非常に似ているのが、現代中国エリートの一部の議論の仕方である。私の経験上、彼らはインフォーマルな場では現在の政府のあり方を批判することも多い。そのときに彼らが用いる正当化のロジックは「中国は目指すべき理想像を持っているが今はそれに対して不十分である」というものである。それを「愛国心」として包摂する姿勢は、矢内原的な愛国心の発露と軌を一にするものだろう。