「技術官僚の政治参画–日本の科学技術行政の幕開き」

近代日本の発展を担った技術官僚たち、当初「お雇い外国人」の代替者でしかなかった彼らはいかにして科学技術行政中枢における地位を確立していったのでしょうか。法科系官僚の圧倒的優位に対し、結社と運動によって団結し、総力戦体制の形成と軌を一にして自らの存在感を増していく技術官僚たちを追った本を読みました。



                   


「技術官僚の政治参画-日本の科学技術行政の幕開き」

(大淀昇一著・中公新書・1997年)

筆者は日本の科学技術行政の歴史を西洋列強からの科学技術移転を目的としたお雇い外国人制度から説き起こします。政府の招きで来日した彼らは個別の技術移転を担いはしたものの、政策決定の枢要に関わる事はほぼなく、あくまでも技術の伝達者としての存在でした。と同時に、工部省や工学寮といった技術開発、インフラ整備、技術者育成を目的とした組織が設置され、技術者としてのお雇い外国人を代替すべく国産の技術者育成が推進されていきます。そうやって育成された彼らは日本の技術開発やインフラ整備の最前線を担い、当初それらを指導していたお雇い外国人の存在をリプレイスして行きます。1899年にはお雇い外国人の受け入れ制度自体が廃止され、ここに日本人技術者、技術官僚による近代日本の発展が本格化します。しかしながら、お雇い外国人と同様、彼らもまた技術の尖兵としての役割しか与えられませんでした。人事統計上も政策決定の枢要を担う中央省庁幹部への技術系官僚の登用は皆無に近く、蝋山政道が「(当時の日本の行政では)ザッハリッヒ(実質的な)な考え方ではなく、フォルムリッヒ(形式的な)な見方が重んじられたからである」と喝破したように、技術系官僚の地位は低く留め置かれたのです。


行政の総合的判断に科学・技術の専門性を活かし、ひいては自らの地位向上を目指すべく、技術者・技術系官僚達は徒党を組んで運動を展開していきます。工部大学校の第一回卒業生が集って作られた学会「工学会」(1879年)を皮切りに、時に大正デモクラシーの影響も受けつつ、技術者・技術系官僚たちは「技術による報国」と「自らの地位向上」を目指して結社し活動して行きました。しかしそれらは容易に実を結ぶ事はなく、満州事変や大陸進出の頃になってようやく、技術系官僚を政策決定の中枢へ引き上げようとする動きが出てくる事になります。


その流れの中で筆者が注目するのが、満蒙における政務と開発を担った興亜院(1938年設立)技術部の部長に就任した宮本武之輔です。それまでも技術者の地位向上活動、政策決定の場における影響力の拡大を意図して日本工人クラブ(1920年)を設立する等精力的に活動してきた宮本でしたが、満州における陸軍と呼応した技術調査等を通じて存在感を増し、部長就任によってついに政策決定の枢要の一つに足場を得ます。そして総力戦体制確立の契機の一つとなった科学技術刷新体制の成立により、宮本を初めとする技術系官僚たちの地位はそれまでにない向上をみたのです。彼を含む多数の技術者・技術系官僚が所属した諮問機関・国防技術委員会は、総合国防技術政策実施綱領を政府に提示し、その中で技術者による技術政策の統制が主張されます。1941年には科学技術新体制確立要綱が閣議決定され、それを踏まえて経済・科学・技術等の総合運営を担うとされた企画院が設立、宮本は次長に就任します。ついで技術院が設立され、少なくとも形式上は科学技術に関する意思決定権が技術官僚に付与されます。長く法科官僚偏重であった文官任用令の改正も行われ、ここに戦前の技術官僚の地位は一つの高みに達しました。


筆者は、その後の技術院の活動は必ずしも効果的な科学技術動員を成しえたものとは言えず、形式上の地位向上はあったものの実質的に技術官僚が役割を果たせずに終わってしまったと指摘し、戦後の科学技術庁への連続性を説きつつその記述を終えます。