技術者倫理の展望 –その歴史的背景と今後–

技術者倫理はなぜ必要とされ、発展してきたのか?そこには日米欧で異なる歴史的・社会的文脈がありました。



金光秀和, 「技術者倫理の展望 –その歴史的背景と今後–」『情報知識学会誌』情報知識学会, 16(3), 2006, pp. 24-38
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004798416 よりダウンロード可



筆者の指摘によれば、アメリカにおける技術者倫理は技術者集団が内発的にこれを策定していったところに特徴があるとされます。そこには行動規範を明示することにより、専門職としての社会的地位を確立したいという思惑がありました。また当初技術者倫理の律するものとして考えられていたのは「雇用主に対しての責任(従順、忠誠、信頼といったもの)であり、技術の社会的影響に関する倫理については対象ではありませんでした。


アメリカにおいて一般公衆に対して技術者が義務を負うという流れになっていくのは、ECPD(専門職発展のための技術者協議会)が1947年に「公衆の安全・健康・福利に対して有する責任」をその倫理綱領に明記してからのことになります。そして1970年代以降、技術にまつわる事件・事故や公害問題の発生といった背景のもと、倫理教育の充実が企図されていきます。それはミッチャムの言葉を借りれば「暗黙の倫理」→「忠誠としての倫理」→「公衆の安全・健康・福利」→「倫理教育」(そしてさらには国際的な広がり)という4段階を経ていったのです。


  • 日本


日本において技術者倫理に関する議論が活発化するのは2000年代頃の様々な事件(例えば高速増殖炉もんじゅの事故)が生じたことによりますが、筆者はそれよりもむしろ1996年頃に始まった工学教育改革が重要な起点であったとします。先述のアメリカにルーツを持つ技術者倫理・技術者教育が国際的な制度(技術者の認定機構)として広がりを見せていく中で、日本の工学教育もまた技術者の国際化を意図した形に改革されていきました。日本における技術者倫理・教育の発達は、まさに国際的な変化への対応を目指して行われたものでした。


これはアメリカのように、技術者集団の地位確立を目的とした内発的な動きから生じたものではありませんでした。日本においては技術業が専門職集団であるという概念が薄く、また学協会がプロフェッショナルソサイエティとしてではなく、アカデミックソサイエティとして機能してきたからであると筆者は指摘しています。


  • フランス・ドイツ


フランスにおいては、そもそも技術者の地位が社会的に高かったこともあり、技術者集団が主体的に専門職倫理としての技術者倫理を発展させる事はありませんでした。既存の技術者教育の中には既に人文科学面の教育が織り込まれており、また個人の専門職としての倫理は「技術者の社会的役割」というカトリックの考えに影響されたところが大きかったようです。そこでは、「専門職倫理としての技術者倫理」よりも「技術倫理としての技術者倫理」が存在感を持っていました。


またドイツについては古くから技術についての哲学的議論が存在しており、1877年には『技術哲学の原理』が出版されています。カントやヘーゲルの影響を受けて社会倫理の側面から技術を論じたものであり、アメリカでは後発的に生じてきた技術者倫理における社会や公衆への義務といった観点は、ドイツにおいては初期から存在していたといえるでしょう。テクノロジーアセスメントへの関心にも見られるように、ドイツにおいては技術の社会的影響を考慮し、個人倫理よりも社会倫理の観点を重視する傾向がみられると筆者は指摘します。



この他、本論文では歴史的文脈を踏まえた技術者倫理、技術倫理、技術者教育に関する各国における今後の展望も簡潔にまとめられています。筆者は歴史的背景を踏まえずして画一的に技術者倫理を展開することは望ましくない旨を強調しています。