科学技術における「軍産学複合体」の歴史的考察

戦前、戦中の科学技術研究体制と海軍との関係を「軍産学複合体」*1という視点で捉え、その意義と帰結を考察した論文を読みました。科学技術の専門家集団としての海軍は軍産学複合体の中でどのような役割を果たしていたのでしょうか?



畑野勇, 「科学技術における「軍産学複合体」の歴史的考察」『思想』, 岩波書店, 第968号, 2004年12月, pp. 122-143


  • 海軍を中心とする軍産学複合体の実態


筆者はこれまでの戦時下産業・科学技術統制に関する研究が、時間的には日中戦争期を中心に、対象としては陸軍・企画院を中心に分析してきたことを指摘しながらも、その実態を明らかにするためには海軍を中心とする産業・科学技術政策を対象として海軍創成期から分析する必要があるとします。イギリス海軍をモデルとして発展してきた帝国海軍は、特に造船について産学界と密接な関係を築いていました。1897年に設立された軍産学の有力者をメンバーとする造船協会がその端緒にあたります。日露戦争ジーメンス事件そして第一次世界大戦を経て国内における各種技術の開発と生産、特に軍艦の国産化が必要となっていく中で、その体制は一層強固なものとなっていきました。そして、八八艦隊計画の策定とそれに見合う生産力の必要性が明らかとなり、軍産学複合体は一つの高みに達します。


その後、ワシントン軍縮によって造船・鉄鋼産業は一時的に打撃を受けますが、平賀譲を中心とする海軍造船官僚たちは戦争遂行にはファンダメンタルな工業力の強化が必要との見方を維持し続けました。そんな中での不況脱出を目的とした産学に対する支援は典型的な産業政策といえるものでした。交付金制度を創設して民間船の建造を促進した海軍には、有事の際にそれを軍用に転用するという思惑がありましたが、本稿ではむしろ不況脱出を目的とした官民協調型の産業政策の一つとして捉えられています。そのような協調的な体制は戦争に突入しても残存していました。戦時中の海運資源の運用を担った「船舶運営会」を例にとれば、そのメンバーには民間人も含まれており、頭ごなしの命令というよりは民間企業の協力を促すものであったと筆者は指摘します。また造船業についても、1942年に閣議決定された「計画造船ノ実施確保ニ関スル件」と産業設備営団の設立を出発点とする一連の施策は、民法学者の吾妻栄に言わせれば「国家の資本力と企画性と民間の経営能力との融合を図るもの」でした。また計画造船の最前線においても、各民間造船所に派遣された海軍監督官による技術指導が行われると同時に、民間から徴用された技術者が設計等の技術開発に関与するという相互交流とも言える実態がありました。


このような軍産学複合体の「蜜月関係」とも言える状況は、戦局が激化するにつれその終焉を迎えます。1943年に制定された「戦時行政職権特例」と「戦時行政特例法」、そして新設された軍需省の出現により、それまで発達してきた軍産学複合体の自律性が失われ、総力戦体制における首相の権限が強化されます。自ら政治的発言力確保という目的もあり軍産学複合体を拡大してきた海軍は、土壇場で戦時体制運営の主導権を失い、東条首相と陸軍の台頭を許したのです。


  • 学術振興一般との関係


では、海軍と大学あるいは学術の関係とはどのようなものだったのでしょうか?1931年初頭から始まった学術振興会設立へ向けての学界の運動は昭和恐慌による緊縮財政で頓挫しかけましたが、満州事変後に財部彪元海相の後押しもあってその年の12月に日本学術振興会が設立されます。それは設立の立役者の一人である櫻井錠二が「学界と国防方面と工業方面とが一心同体と成って学術研究の進行に努力」した結果であると評したように、前述の軍産学複合体の緊密な協力の結果でもありました。


30年代後半における軍と学術環境との関係は、総動員体制の運営を担った企画院と海軍との争いを通じて描かれていきます。企画院が内閣に設置した科学審議会が科学行政の最高機関として位置づけられようとする中、それまで軍産学複合体の強化と発達に邁進してきた海軍は異を唱えます。「科学審議会設置ニ関スル意見(軍務一課別室)」によれば「文部省其ノ他各省ノ上ニ科学行政ノ最高機関ヲ置キ企画院(実質的ニハ陸軍)ガ之ヲ掌握セントスル思想ハ科学ニ最モ縁遠キ者ニ科学研究ノ方針ヲ左右セシムルコトトナリ適当ナラズ」との反駁が見られます。このような姿勢の海軍に歩調を合わせたのが文部省で、1938年に科学振興調査会を設置し、ここに企画院vs文部省・海軍の権限争いが始まります。背景には、二・二六事件によって陸軍を追われた皇道派荒木貞夫文部大臣の存在がありました。陸軍主流派を追われた荒木は、陸軍とその影響下にあった企画院に対抗する拠点として科学振興調査会を設置したのです。


ここで鍵になるのが、科学振興調査会のメンバーでもあった元東大教授平賀譲*2の存在です。他のメンバーと協力しつつ、平賀は大学等の既存研究機関の拡充を提唱していきます。その提言の一環として、東大総長でもあった平賀が実現したのが綜合試験所の設置でした。同研究所では海軍からの受託研究を多く引き受け、またその内容は純粋軍事研究というよりも軍民両用技術の研究開発に重点が置かれていました。ついで同調査会の提言により、荒木文相によって科学研究費交付金が創設されます。1943年に同交付金が人文社会科学に対しても配分されるようになりますが、これは学部や学科の区分を超えた「総合研究」の必要性を自覚していた平賀の尽力によるものでした。このような経緯があり、海軍を中心とする軍産学複合体の一連の動きは人文社会科学系の学者からも支持を得ていったのです。


しかしながら、戦局の悪化は軍学の蜜月関係にも終わりを告げます。1943年8月に閣議決定された「科学研究の緊急整備方策要項」と同年10月の「科学技術動員綜合方策確立に関する件」により、科学研究は戦争遂行を目的とする事が明確化され、内閣に設置された研究動員会議が研究の方向性を戦争一本に集約していきました。平賀が尽力した大学の自治や研究者の地位保全は、戦局の悪化と共に水泡に帰したのです。



      

*1:筆者はこの枠組みの前提として、軍の分析を政治史的に行う際に「シヴィリアン」と「ミリタリー」という2分法は必ずしも適切ではなく、機能を媒介として融合した「軍民複合体」として捉える必要があると指摘している。そして軍産学複合体を「軍民両用技術の研究・開発のための組織間の結合によって、日本海軍が産業力の強化・大学における科学技術の研究開発振興・自身の拡張の三者を一体として行い、産業政策・科学技術政策等をめぐる自身の影響力・政治的発言力を強化する体制」と定義している。

*2:筆者は、平賀粛学もまた陸軍との抗争という文脈で捉えようとします。平賀が休職を上申した土方成美は統制経済の提唱者であり石原莞爾のブレーンでもありました。