迎賓館参観

迎賓館赤坂離宮の建物内部一般公開に参加してきました。全部で2万名しか参観出来ない狭き門?だったのですが、5月に開催された皇居宮殿一般公開の抽選に外れて悔しい思いをしただけに、楽しみにしてきたイベントです。安全上の理由という事で内部の写真撮影はできなかったのですが、普段は見られないところをボランティアの解説員(毎年募集がかかり、研修を経て配置されている)の方の解説付きで見られるという幸運な体験でした。



迎賓館赤坂離宮。毎年11月に前庭のみ一般公開されるため、この場所には一度行った事があります)


今回の目玉は何と言っても迎賓館内部、国賓が宿泊する実際の建物の中を見て回れるというところにあります。彩鸞の間、花鳥の間、朝日の間、羽衣の間といった晩餐・会談用の大部屋に加えて、迎賓館創設40周年記念ということで特別に公開された東の間(要人のマスコミとの会見が行われる部屋)も見学する事ができ、大変有意義なひとときでした。


特に印象に残ったのは綺麗さです、綺麗さ。窓枠にはほこり一つ落ちていません。どこかの大学の院生室の一億倍くらい綺麗です。あの大きさの建物でこの掃除のクォリティを維持するのは並大抵の努力では無いのだろうと感じました。貧乏性でしょうか、個人的には「こういうところに泊められても逆に気が休まらないなぁ」と思いましたが、国賓をもてなし国の威容を示すということの重大さを実感したのも事実です。


建物の外観こそ洋風になっている迎賓館ですが、内部の部屋のデザインは和洋折衷といった趣が強いです。大部屋の床はいずれも寄木細工でできており、花鳥の間にいたっては木製の壁に七宝焼がはめ込まれています。外交プロトコルとしての西洋性をベースにしながらも和のデザインを織り込もうとした意図が強くうかがえます。泊まる人がどこまでそれに注意を払う余裕があるのかはわかりませんが。


また11月の前庭公開では入れなかった建物の後ろ側の庭(上写真)にも入る事ができ、噴水と迎賓館とのコラボレーションを堪能する事も出来ました。後庭は木々に囲まれており、周りの建物からは視覚的にほぼ遮断された空間になっていました。


来年も募集されるはずなので、興味のある方は応募されてみると良いかと思います。


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月刊ポスドク創刊記念特大号


twitterで表紙が作成されたところ、一部ポスドクの皆さんが本気を出して中身まで作ってしまったという『月刊ポスドク』8月号を読みました。ついでに言うと、これを手に入れるためにコミケ初参戦となりました。人の多さでは有名なイベントですが、あんなに多いとは思いませんでした。暑い中販売を担当されていた皆様、本当にお疲れ様でした。コミケではコスプレ&写真撮影の熱気にびびったり、日付によって出展が全て入れ替わることに驚いたり、人数の多さ故に冷房がつけられないことにげんなりしたりといろいろ勉強になりました。友人で出展している人も何人かいるし、また行ってみたいです。



戦利品の『月刊ポスドク8月号』、付録の"研敵必察"トートバッグ

  • 目次

・簡単セルフチェック「うそっ・・私・・ポスドク?」
・履歴書・業績書使い回しコーデ
ポスドク時代を振り返って思う
・ゆるふわ愛され♡ポスドク―事務の人に愛されるには
・華の海外PD組―研究生活すべて見せます
・気をつけたい!国際学会・留学落とし穴
・結婚・出産ラッシュ!こうしてワタシはのりきった
ポスドクとオカネ事情―医師(MD)の場合
・懐かしのアメリポスドク生活あれこれ
・アピール必須!ポスドクアウトリーチ
・良い研究はおいしいごはんから!まんぷくラボごはん
・小説「ポスドク羅ボ生門」
ポスドク占い
・次号予告
・編集後記・奥付

  • 読んでみた


どの記事も悲壮感刺激に満ちていて大変興味深かったです。ざっと読んでみて印象に残ったのはやはり「結婚・出産ラッシュ!こうしてワタシはのりきった」でしょうか。子どもが何人居るか、実家との距離はどれくらいか、所属先が保育園・幼稚園を提供しているかなどによって千差万別な状況があるのかとは思いますが、そんな中で一つの「モデル」がこういう形で提示されるのは非常に意義のあることだと思います。


あとは「華の海外PD組 研究生活すべて見せます!」も面白かったです。「私の滞在中に、彼(受け入れ教員)のラボの院生がScienceのペーパーを通していました。それは極端としても、国内では「憧れ」であった一流の雑誌に、ぽんぽんと投稿して、ぽんぽんと通しているのを見て、そういう雑誌は「憧れ」の対象ではなくて、誰でも投稿できて掲載できる「現実」なんだな、と思いました。」という箇所に端的に表れているように、どこかの段階で海外で研究生活を送ることは自分の世界観を広げ度胸を付ける上でやはり重要だなと感じました。


しかし何より印象深かったのは「編集後記」でしょうか。企画・編集・販売までほぼ一手に仕切っておられた@nanaya_sacさんの思いがよく分かる素晴らしい編集後記でした。「「誠実に」行われた研究に無駄なものはない」というのはまさにおっしゃる通りだと思います。ポスドクという不安定な立場にあってもなお、人生の全精力を傾けて研究を行っている彼ら・彼女らによって日本の学術研究の屋台骨は支えられているということを改めて実感しました。


本雑誌は評判等々如何によっては次号が作成される可能性も微レ存らしいです。近くに持っている方がいたら読ませてもらうのも一興ではないでしょうか。孤立しがちなポスドクが、こういう形式で一つのコミュニティを形作っていければ、それは彼ら・彼女らを取り巻く必ずしも満足とは言えない精神的・肉体的状況をささやかにでも癒すものになるのではないでしょうか。




「科学者の自由な楽園」が国民に開かれる時―STAP/千里眼/錬金術をめぐる科学と魔術のシンフォニー

現代思想2014年8月号-特集・科学者 科学技術のポリティカルエコノミー』に掲載された中尾麻伊香さんの論文を読みました。理研という「科学者の自由な楽園」は、国民との危うい関係の上に成り立っていたとも言えるのではないでしょうか。


中尾麻伊香「「科学者の自由な楽園」が国民に開かれる時―STAP/千里眼/錬金術をめぐる科学と魔術のシンフォニー」『現代思想』2014年8月号所収



超能力者・御船千鶴子、そしてその「能力」の科学的な裏付けを目指した東京帝大助教授・福来友吉、さらにはもう一人の超能力者・長尾郁子の出現により、明治末期に一大ブームとなったのがいわゆる千里眼事件でした。透視や念写といった超能力を前にした山川健次郎、中村清二、石原純といった著名物理学者たちは、千里眼は詐術であるという疑いを持ちながらも、あくまでも科学的な実験によって真偽が判定されるべきだという態度をとりました。実験にこだわり歯切れの悪い科学者たちに対してメディア≒国民はしびれを切らし、「一にも実験二にも実験とは今日の学風也。故に事実は先立ち研究は後ろ、学者の事実を認識するの速度、到底実務家のそれに追究する能はざる(1910年1月5日付読売新聞朝刊)」といったような批判を繰り広げます。千里眼事件の終焉をもたらした長尾郁子の死に際しても「千里眼及び念写は嫉妬深き一部学者の非科学的実験により世に葬られん(1910年2月28日付東京朝日新聞)」という痛烈な一文が掲載されています。千里眼事件は単なる科学による非科学の追放ではなく、厳密な科学的判断に拘る科学者と千里眼という摩訶不思議な超能力を信じたい国民との間の溝を象徴するものだったのです。

  • 水銀還金実験


物理学の大御所・長岡半太郎が水銀から金を取り出す実験を試みていたことはあまり知られていません。1924年のNature誌の論文で水銀還金の理論的可能性*1を予告していた長岡は同年秋に公開実験を含む報告会を行い、金の発見を発表します。例えば時事新報の記事で「学界の権威を網羅した財団法人の理研でありその発見指導者がこれも世界的に有名な長岡半太郎氏なので、果然学会の一大驚異となった」と大々的に報道されたように、「現代の錬金術」としての長岡の業績は本人や理研の「権威」に依存してもいました。このようなセンセーショナルな報道がなされた背景には、理研所長・大河内正敏の方針があったと筆者は指摘します。「科学者の自由な楽園」としての理研を主導した大河内は、国民の支持を得た基礎科学の振興が国防に寄与するとの信念も併せ持っており、基礎科学に対する国民の支持を獲得しようと広報にも重点を置いていたのです。


長岡の実験結果は誤りであったものの、当人がそれを認めることは生涯ありませんでした。また科学界の重鎮であった長岡を批判する科学者は、科学ジャーナリストに転身していた石原純をのぞいて皆無であり、長岡・理研による「過ち」は訂正されることなく流布し続けたのです。

  • 「人工ラヂウム」実験


戦前の理研にまつわる広報においてもう一つ取り上げるべきものとして筆者が挙げるのが仁科芳雄による「人工ラヂウム」実験です。サイクロトロンの建設資金獲得のために奔走していた仁科は、宣伝活動にも積極的でした。サイクロトロンを用いて生成した放射性物質ガイガーカウンターを近づけて音を鳴らすというある種の「魔術」を宣伝手法として活用していた仁科、そんな彼の研究室はメディア上で「魔の実験室」と形容される程でした。このような仁科の手法がもっとも象徴的な形で現れたのが、紀元二千六百年記念理研講演会でのことでした。会場の九段下・軍人会館に入りきらない程の聴衆が集まった中で仁科は、「人工ラヂウム」を人間に飲ませて「放射性人間」を作るという実験を敢行します。ラジウム溶液を飲んだ実験台にガイガー・ミュラー計数管をかざすと機関銃のような音がし、観衆は仁科の「魔術」に酔いしれることになります。


実際に仁科が用いていた物質はサイクロトロンで加速された重水素核のビームを岩塩に照射して得られる放射性ナトリウム24のことであると考えられます。仁科はこの物質を聴衆にわかりやすく魅力的に伝えるために「人工ラヂウム」と呼んでいたのではないかと筆者は推測しています。仁科の中では科学的な裏付けがあった実験であり、その種明かしもおそらくなされていたでしょう。しかしメディア・聴衆の目に焼き付いたのは公開実験での「魔術」を通じて出現した「放射性人間」だけだったのです。

  • 科学者の自由な楽園とは


筆者はこれら3つの事例の目的の違いを指摘します。千里眼事件にまつわる検証実験が非科学と科学を区別するために行なわれたのに対し、仁科や長岡の公開実験は科学研究の有用性をセンセーショナルにアピールするためのものでした。大学とは違って教育の義務がない研究者集団・理研にとって国民は研究資金を得るための間接的なスポンサーであり、理研の科学者たちはその国民を前にして「魔術師」のように振る舞ったのです。科学であると同時に魔術として振る舞うという渾然一体さのもとに成立していた科学者の自由な楽園・理研・・・STAP細胞事件はその楽園に終わりを告げるものだったのかもしれません。

中尾さんの論文が所収されている現代思想2014年8月号には、隠岐さや香さんの論考「18世紀科学における「公共の福祉」と社会—パリ王立科学アカデミーと機械仕掛けの王」も掲載されています。そちらの紹介はえめばら園(http://d.hatena.ne.jp/emerose/20140801/1406883121)をどうそ。


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*1:水銀は原子番号80、金は原子番号79であるため、80の陽子を持つ水銀から陽子を一つはじき出せば79の陽子を持つ金に変わるだろうというもの。

ラトキン「ヨーロッパ史のなかの占星術」

Bibliotheca Hermeticaを主宰されているHiro Hiraiさんが7月22日から25日にかけて「科学革命の史的コンテクスト インテレクチュアル・ヒストリーの方法と実践」と題して駒場にて集中講義を行われました。私が報告を担当した文献について簡単にまとめを置いておきます。


ラトキン「ヨーロッパ史のなかの占星術」『史苑』、第74巻(2014年)、p176-207
ここからダウンロード可。



(本論考は昨年立教大学で開催された著者の講演(上記動画)と内容を同じくするものです。個人的な感想ではありますが、氏の英語発表は私が今まで目にした数多の英語によるプレゼンテーションの中でも最高度の完成度とわかりやすさを誇るものであり、インテレクチュアル・ヒストリーとしてだけではなく、英語発表という意味でも必見だと思います。)

  • 16世紀頃までの占星術の知的位置づけ


当時「星々の学」とされていたもののうち、天文学(astronomy)は天体の運動を数学的に研究する精密科学であり、また占星術(astrology)は天体の動きが地上に及ぼす影響を調査するものとされていました。占星術はさらに、回帰占星術、出生占星術、質問占星術、選択占星術と分類され、自然現象、日常生活から権力者の意思決定まで幅広く参考とされたものでした。ドイツの自然哲学者アルベルトゥス・マグヌスにより「自然知の正当な部門の一つ」として確固たる地位を確立していた占星術は、イタリア各地の大学における数学、自然哲学、医学の課程で必須のものとして教授されていたのです。ラトキンはイタリア各大学の当時のカリキュラム・教科書に着目することにより、大学教育というレベルにおいても占星術が重要な位置にあったことを論証しています。


天文学占星術質料形相論的なアリストテレス的自然哲学に基づく統合数学的自然哲学であり、アリストテレス的世界観に惑星の動きを加味することによって成立していました。「個々の場所それぞれのあらゆる本性と性質を理解したいと望むならば、[中略]星々のちからに由来する特有の性質をもたないような場所はないということを知るだろう。」(p182)とあるように、それはまさに知的な営みとして世界を説明しようとするものだったのです。


1496年に出版されたピーコ・デッラ・ミランドラの著作『予言占星術駁論』では、「星々の学」の予言的な側面に対する批判がなされます。天の影響は普遍的な作用因に限定されるべきであるという彼の主張に対し、ドイツのルター派諸領邦の大学で教育を受けていたティコ・ブラーエやヨハンネス・ケプラーといった人物は、占星術天文学的・自然哲学的基盤を改革しようと試みていきます。ティコは「星々の学」の観測的基盤をより精緻なものにしようと考えてヴェン島に天文台を建設、ケプラーはティコの観測結果を基に惑星楕円軌道の法則(ケプラーの法則)を導出すると同時に、伝統的占星術が奉じていた「黄道十二宮」や「世界の家」といった概念を否定し占星術の根本的改革を志向します。


興味深いのは、科学革命の通説的な説明においてはその嚆矢とされるこれらの人物が、占星術という「疑似科学」を根本から撲滅しようとしていたのではなく、その改革者として立ち現れているということです。ティコは観測結果を基にホロスコープを作成し、ケプラーもその著書『新天文学』に皇帝ルドルフの出生ホロスコープとしての意義付けを与えており、あくまでも既存の占星術の枠組みの中に居続けたことをラトキンは強調します。同様の視点はフランシス・ベイコン(自身の志向する帰納的方法を前提として、過去の記録を探索する歴史研究を行うことによって占星術の改善・改革を図ろうと提案した)やロバート・ボイル(惑星が希薄だが実体を伴った放射物を放出していることを認めた上で、それらを検出する実験を提案した)といった近代科学の先駆者とされる人々に対しても提示されています。


17世紀に入り、一部の専門書・教科書(クラヴィウスやルオーらの教科書)では占星術を排除するような方向性が見られるようになりますが、数学・自然哲学・医学の各分野において占星術は依然重要な位置を維持し続けました。イギリスにおいては一部占星術の教授を禁じるサヴィル定款(1619)が発された後も占星術は教育されましたし、医学分野に至っては18世紀中葉に至ってもなお占星術はカリキュラムの重要な一部分であり続けました。


しかし、そのような旧来の自然哲学的教育を受けたルネ・デカルトアイザック・ニュートンといった人々が、最終的に占星術に引導を渡すことになります。機械論的な世界観に拠ってたち、蓄積されつつあった観測結果から太陽系の広大さを認識していたデカルトニュートンにとって発散気のメカニズムはもはや機能するものではありませんでした。ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』の中でアリストテレス的な質料形相的枠組みを一掃し、観察・定量化・計測されるものを重視する姿勢を明確にします。17世紀後半において、少なくとも先端的な学知の中においては、占星術はほぼ完全に否定されるに至ったと言えるのかもしれません。

  • 18世紀、その後


ラトキンは18世紀の各種百科事典の記述も見ることにより、17世紀に起きた改革の試みと占星術の否定という過程が18世紀においてより広範な知のレベルにおいて繰り返されたことを指摘します。最終的に占星術が先端知の領域や大学のカリキュラムから消滅した理由について、ラトキンは詳らかにすることを保留しています。上述のような自然哲学内部での変容は確かに観察されますが、それをもって「学問分野の消滅」を決定付けるのは早計であるという態度の現れでしょう。その後占星術は民衆文化のうちに「活路」を見いだし、疑似科学としてのレッテルを貼られつつも現在に至るまで存続し続けています。

  • コメント(インテレクチュアル・ヒストリーとしての本論文)


本論文では15, 16, 17, 18世紀の知識人の著作、そのテクストを丹念に追うことにより、自然哲学・占星術内部においてどのような変遷があったのかを明らかにすることに加えて、教科書や百科事典といった文書にも着目することによって知の総体的な変遷を描き出そうという試みがなされています。まさにインテレクチュアル・ヒストリーの王道を行く研究であると言えるのではないでしょうか。反面、ラトキン自身も認めるように、占星術という「将来性を備えていた」(p195)学問体系がなぜ17, 18世紀に完全に根絶されるに至ったのかについての確定的な説明は十分ではありません。ラトキン自身は知の内部における変化(アリストテレス的世界観からデカルト的世界観への変遷、観測の進歩)がそれをもたらしたという内的な説明を中心に据えようとしているように見えますが、外部環境的・政治的な要因も排除してはいません。この点に対するヒライさんのコメント「一大学だけでなくヨーロッパ全域でほぼ同時に占星術が駆逐されたことから考えても、大学個別の政治的要因だけで説明するのは難しい」というのが印象に残っています。




Shut up and calculate !

Nature誌が第1次世界大戦勃発から100年、第2次世界大戦勃発から75年を契機として、戦争と科学に関する論考を断続的に掲載していくようです(参考記事:http://www.nature.com/news/conflict-of-interest-1.14470)。まず公開された二つの論考のうち、David Kaiserによるものを紹介したいと思います。第二次世界大戦アメリカの物理学研究にどのような影響を与えたのでしょうか?


Kaiser, "Shut up and calculate", Nature(Comment), Vol.505, p153-155 (2014)
ここからDL可)

  • 戦争、そして巨大化する科学


アメリカにおける研究開発は、第二次大戦以前は民間の寄付や学費を原資としたものが主流でした。これに大きな変化がもたらされた状況を、筆者は物理学をベースとしたレーダー開発・原爆開発を事例として概説しています。レーダー開発については終戦までに200億ドル(現在換算)、原爆開発については250億ドル(現在換算)の巨費が投じられ、その合計はアメリカの戦費の1%に及ぶものでした。研究者の動員も大規模にわたり、物理学、化学等を初めとする多様な分野の学者が戦争に勝利するための科学技術開発という共通の目的に向かってチームとして取り組んでいったのです。


そこでは純粋かつ自由な好奇心に基づく「科学」はありませんでした。動員された科学者達は「Shut up and calculate !」という号令のもとに、結果だけを求めて研究開発に邁進していったのです。

  • 戦後への影響


本論考の主要な論点は、①研究を推進する制度②研究を進める方向性・手法について戦前戦中期にもたらされた変化は戦後も持続していたということであると思われます。


①については、戦前は国家、特に防衛部門からの基礎科学へのファンディングは皆無に等しかったにも関わらず、戦後は基礎研究の多くが国家(防衛機関)によって支援されるのが当たり前になったのです。1949年の段階で、アメリカにおける物理学の基礎研究に対するファンディングの96%は防衛関連機関からの支出でした。国家による戦争中の大規模な金銭的支援は、戦争が終結しても当たり前のものとなっていったのです。


また②についても、戦時中に「戦争に資する」という目的のために分野を超えて協同した科学者たちは、戦後もその方法を引きずっていったと指摘されます。例えば物理学者Julian Schwingerは、理想化された状態にのみ適用可能な精緻な誘導を過程重視で行うことを重視していましたが、共に働いた技術者達がプロセスよりも結果を重視し最大限の効率性を追求していることに大きな影響を受けます。このような、筆者の言葉で言う「pragmatic」な方向性への研究目的・手法の変化は、戦後も持続しました。Schwingerはマクスウェル方程式を用いた複雑な計算で電気抵抗率を積算していくという過程重視の方法よりも、各過程をブラックボックス化して最初のインプットから最後のアウトプットを簡便に導きだすという意味での研究成果を追求する事になります。


このような物理学の実用的傾向は戦後のPh.D取得者数にも影響を与えました。1960年代中葉までに、アメリカにおける物理学博士号取得者の4分の3は原子核物理学や物性物理学といった「pragmatic」な分野に偏るという傾向があったと筆者は指摘します。戦争でもたらされた実用性重視という変化は、研究の内実にすら影響を与えて戦後も持続したのです。

  • 「物理学」への回帰


しかしこのような変化は、トレードオフを内包していました。実用的な側面を重視するという方向性は、一方で物理学がそれまで持っていたphilosophicalな視点を失わせる事になったと筆者は指摘します。宇宙の誕生、複雑系における秩序と無秩序、量子論といった「大いなる課題」に対して取り組むことが少なくなっていったのです。このような「大いなる課題」への回帰が見られるようになっていくのは1960年代後半以降、ベトナム戦争後の財政赤字や科学の軍事貢献への懐疑が現れ始めたころです。


筆者は、戦争によってもたらされた制度(国家による科学に対する財政支援)は依然として強固に持続しており、それに基づく「実用的な」成果も出続けているのは確かであるとする一方、「自然の理を明らかにする」ことを目的としたphilosophicalなアプローチも復権しつつあると結んでいます。


論考中に明示的に書かれている訳ではありませんが、筆者は単に戦争中に科学がいかに動員されたかという視点だけでなく、そのような動員・変化のもたらした影響のうち何が残って何が残らなかったのかをより精緻に分析していく視点も重要であると指摘している様に思えます。



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近代化を抱擁する温泉―大正期のラジウム温泉ブームにおける放射線医学の役割―

大正期のラジウム温泉ブーム、そこでは勃興期の放射線医学が大きな役割を果たしていました。しかしその構図は単に「近代科学としての医学が温泉の効能に裏付けを与えていった」という一方向的なものではありませんでした。近代日本において西洋由来の科学知識と日本古来の温泉信仰が接触する中で、温泉という生活実践の場においてどのような相互作用が生じていたのでしょうか?


中尾麻伊香「近代化を抱擁する温泉―大正期のラジウム温泉ブームにおける放射線医学の役割―」『科学史研究』52, 2013, pp187-199



そもそも日本において、温泉の効能は神の霊験によるものだと考えられていました。江戸期には本草学の影響もあり温泉の効能について「医学的な」説明がなされていく様になります。そして明治期に入り、科学的手法による鉱泉の測定・分類が行われていきます。その端緒を担ったのは政府各機関で働いていたお雇い外国人たちでした。日本の温泉が湯治場(江戸期)から観光地(明治・大正期)へと転換していく過程で近代医学は顧みられなくなっていった、というのが温泉の歴史における通説でしたが、筆者は、ラジウム温泉を例にとれば、温泉の観光地化に近代医学が積極的な役割を果たしていた側面もあると指摘します。


日本の温泉においてラジウムが見いだされ、その効能を指摘されるにあたって大きな役割を果たしたのは、東京帝国大学の眞鍋嘉一郎(医者)と石谷伝市郎(地質学者)の2人でした。1903年田中館愛橘が欧州からラジウムを持ち帰ったこともあり、放射能研究が様々な研究者の間で関心を呼んでいた中で、温泉をフィールドにラジウム研究を行おうとしたのがこの両名だったのです。


1910年の『東京医事新誌』への温泉ラジウム研究論文の投稿を皮切りに、両名による調査に加えて国家機関による温泉の放射線測定が活発化します。1915年には陸軍軍医団も全国主要温泉のラドン含有量調査を行うに至り、森林太郎森鴎外)編集の冊子『日本鉱泉ラヂウムエマナチオン含有量表』が発行されます。ラジウムの効能に着目した各国家機関による調査も活発に行われていったのです。


そのような調査活動によるラジウムの発見と効能の指摘は、社会におけるラジウムブームを引き起こすこともつながりました。ラジウムブームにいち早く乗じた温泉地・熱海は、ラジウム発見の背景にある最先端の科学としての放射線医学のイメージと共鳴するかのように、モダンな建物を次々と建設して上流階級の遊楽地としての地位を確立していきます。最初期にラジウムが発見された温泉地・熱海は、モダンな温泉地として知られており、ラジウム発見の背景にある最先端の科学としての放射線医学のイメージと共鳴していきました。また東京・京橋にはラヂウム樂養館というモダンなイメージを前面に押し出した施設が出現し、ラジウムブームはラジウムが持つ実際の効能と乖離するかの様にそのイメージを増幅させていきました。

  • 科学の受容、そして新たなる伝統の創出―飯坂温泉を事例として


放射線医学という近代科学はラジウムの発見を通じ、ラジウムブームという形で温泉の観光地化に一定の役割を果たしていました。と同時に、放射線医学に基づくラジウムの発見は、各温泉において様々な形で受容されていきました。筆者は福島県飯坂温泉を事例として、ラジウム発見を通じた「新たな伝統の創出」を描くことで、ラジウムをめぐる一連の過程が単なる近代科学の直線的な受容ではなかったことを指摘します。


鉄道院が1911年に出版した『飯坂温泉案内』では、医学的な見地からラジウムの効能が記述されています。そこには前出の眞鍋らの研究成果も引用され、ラジウムの効能を証するにあたって医学者の言説が重視されていた事がうかがえます。しかしその後に出版された他の案内書においては、医学的な見地にとどまらない様々な解説が付されていきます。1913年に出版された橘内文七による『温泉案内飯坂と湯野』においては、ラジウムは飯坂固有の「精霊なる一種元素」として位置づけられます。


1927年に出版された『飯坂湯野温泉遊覧案内』では、「春は全体櫻花に包まれ、梨花に覆われ、桃花に飾られ(中略)斯の如きは海内は固より未だ全世界に多く其の比を見ざる所にして正さにラヂウユーム、エマナチオンの作用する所、實に我が飯坂温泉独特固有の美装である」と記述されています。ラジウムに関する言説は医学的見地に基づく説明を離れ、飯坂の地に根付いた「精霊としてのラジウム」が景観にすら影響を及ぼしているとまで語る様になっていきました。


以上のように、飯坂の温泉案内書においてラジウムは伝承の中に組み込まれていきました。近代科学としての放射線医学は一方向的に受容されただけでなく、温泉地というcontact zoneにおいて温泉地固有の文脈のもとで解釈された上で、温泉地発展を欲する地方の社会経済的背景の中で繰り返し用いられていったのです。筆者は、そのような過程で放射線医学の知見の成果としてのラジウム「抱擁した」温泉の歴史は、福島の原子力ムラにおいて「原子力最中」や「回転寿しアトム」といったブランド・文化を作り上げることで原子力を「抱擁」していった過程とも軌を一にすると指摘しています。



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外交儀礼から見た幕末日露文化交流史――描かれた相互イメージ・表象

日本の開国史を見るとき、北方において地理的に接触があったロシアとの交流を振り返ることの重要性が近年指摘されています。そのような文脈の中で、政治史的な側面よりも文化や表象、儀礼といった側面に重きを置いて分析を行った本を読みました。国交がなく人の往来もほとんどなかった両国の交流、それはまさにお互いにとって「宇宙人との邂逅」であったと言えるのかもしれません。共によって立つ基盤がない中で、外交儀礼の段階から一つ一つ積み上げを図っていった苦闘とはどのようなものだったのでしょうか?



ラクスマン来航時に松平定信が発した対露対策の基本方針は「礼と法をもて妨がん事かいなし」というものでした。後者の「法」については藤田覚の研究が著名ですが、前者の「礼」については必ずしも重要視されてきませんでした。しかし、当時東アジアにおいて国際関係を規定していたのは「礼」に基づく華夷思想であり、またヨーロッパ世界に取り込まれていたロシアにとっても特に貴族レベルにおいて他者とのコミュニケーションの際の礼儀作法が重要であった中で、礼に関する分析は必須のものであると筆者は指摘しています。「ロシア使節と幕府の代表が対面する際の距離はどれほどで、どのような着衣で、どのような姿勢で対座したのか、あるいはまたする必要があったのか。こうしたことを指標にして当時の日露関係を考察」するという筆者の研究は、外交儀礼が単なるお飾りではなく、文化的背景が大きく異なる他者同士が交渉する上で極めて重要な要素であったことを我々に示唆します。


本書第3章から第7章においては、ラクスマン、レザノフ、プチャーチンの来航時における会談と外交儀礼、そしてまた民衆との交流が文字史料だけでなく図像史料にも立脚して詳細に描かれています。


漂流民・大黒屋光太夫の送還を名目に松前に到着したラクスマンは、幕府が派遣した交渉担当者との会談前夜にその形式に関する事前協議に臨みます。そこで問題となったのは表敬のお辞儀の仕方(日本は座礼、ロシアは立礼)や靴の着脱(日本は屋内土足厳禁、ロシアでは人前で靴を脱ぐとマナー違反)といった礼儀作法であり、交渉の結果双方がそれぞれの形式で表敬することに合意します。なお、当時江戸参府を許されていた出島のオランダ商館長は将軍に対して座礼で平伏しており、対等の関係をもたない通商国であったオランダの扱いと、対等の関係を要求するロシアとの扱いの差が端的に現れていると言えます。礼儀作法ひとつとっても、日本式の「礼」のもとで構成される華夷秩序の揺らぎが垣間見えるのです。


ラクスマン来航から12年後、ラクスマンに与えられた「(長崎)入港の信牌」を携えたレザノフが来航します。幕府内部における政治勢力図の変化とそれに伴う対外政策の変更もあり、レザノフに対する扱いは必ずしもよいものではありませんでした。レザノフに対する訓令23項目中、過半数の16項目は儀礼に関する注意を促す(あらゆる点で日本のそれに従うべしとする内容)ものでしたが、レザノフ自身は会見・交渉時の儀礼に関して日本側と丁々発止のやり取りを繰り広げます。特に問題をはらんでいたのが、幕府側が交渉担当に指名した大名とレザノフとの会見時の距離、会見時の帯剣の可否、そしてまた座礼・立礼の別でした。1点目に関しては畳一畳分の距離で通詞とレザノフが合意しますが、通詞に与えられた指示はそれよりも長い距離を念頭に置いたものであり、通詞の越権行為が確認できると筆者は指摘します。帯剣の可否については会見直前に取り外すという算段になったものの、いざレザノフが会見場に足を踏み入れると奉行・宣諭使の背後に太刀持ちが控えており、レザノフは扱いの不公平さに愕然とします。座礼・立礼については、レザノフが「足を曲げられないというのにどうしろというのか、四十過ぎの人間に足を曲げろといっても遅い」と押しきり、立礼に落ち着いています。


レザノフに対し幕府は「新たに通商を認めないという国法」に変化はないと通告します。レザノフが持参した国書・贈答品についても、それに対する返礼をロシアに持参することができないと非礼になるとして受け取りを拒否します。そもそもレザノフへ「ゼロ回答」がなされた背景には江戸における政策決定がありましたが、儀礼に関する一連のトラブルはその通告のショックを増幅させるものであったのかもしれません。外交儀礼に関するトラブルは後の日本の他国との交渉にも影響を与えています。礼を尽くした穏便な交渉では埒が明かないことをレザノフの事例から学んでいたペリーは、武力を背景にした強硬な交渉も辞さない覚悟で対日交渉に臨む事になるのです。


レザノフ来航後、日露の間では数十年に渡りハイレベルでの交渉がありませんでした。しかしペリー派遣を核とするアメリカの対日交渉の動きを察知したロシアは、北方領土の国境画定問題を名目に日本との交渉再開を企図、プチャーチンを派遣します。突如として浦賀に来訪したペリーに対し、プチャーチンはあくまでも日本の「国法」を守って長崎へと来航します。投錨後も礼を重んじた対応を見せたプチャーチン率いるロシア使節に対する日本のイメージは、アメリカに対するそれとは大きく異なり好意的なものだったと筆者は指摘します。そしてその延長線上には、「ロシアを頼んでアメリカを防ぐ」という反米親露論の出現もみられるのです。


プチャーチンの時もまた、会見時の礼儀作法に関して仔細な交渉が行われました。座り方については、ロシア側があくまでも椅子への着席を主張し、ロシア側のみ持参した椅子に着席する事で落ち着きます。靴の着脱に関しては、帆布でカバーをつくりそれを靴の上にかぶせるという折衷案に落ち着き、またお辞儀についてはそれぞれの慣習(日本は座礼、ロシアは立礼)に従う事となります。プチャーチンは日本側の体面を重視しつつも、「この民族の習慣によれば、前例が将来のルールとなる」ということを理解した上で、交渉を重ねて儀礼に関する妥協点を見出していったのです。交渉の結果、プチャーチン最恵国待遇を含めた通商開始に前向きな返答を受け取る事になります。そして下田会談と日露和親条約を経て、日本はロシアとの通商関係を開始します。


筆者は日露開国交渉における外交儀礼をめぐる摩擦を評して「日露は互いに相手に他者性を意識した。それにより日本は鎖国日本を発見し、ロシアは西洋ロシアを再認識した。そのうえで、日本は開国へと自国像を変化させ、ロシアはロシア・オリエンタリズムの特性(東洋と西洋の架橋)を認識していった」と指摘します。礼儀作法の面からして既存の華夷秩序とは異質の存在を意識させられた日本、一方、かつてはヨーロッパに対して「非ヨーロッパ」国家としてのアイデンティティがあったにもかかわらず、日本と触れ合う中で儀礼的な側面でも自国の「ヨーロッパ性」を強めていったロシア・・・外交儀礼における差異と交渉は、両国の自己イメージを明確に出現・認識させるものでもあったのです。


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