ラトキン「ヨーロッパ史のなかの占星術」

Bibliotheca Hermeticaを主宰されているHiro Hiraiさんが7月22日から25日にかけて「科学革命の史的コンテクスト インテレクチュアル・ヒストリーの方法と実践」と題して駒場にて集中講義を行われました。私が報告を担当した文献について簡単にまとめを置いておきます。


ラトキン「ヨーロッパ史のなかの占星術」『史苑』、第74巻(2014年)、p176-207
ここからダウンロード可。



(本論考は昨年立教大学で開催された著者の講演(上記動画)と内容を同じくするものです。個人的な感想ではありますが、氏の英語発表は私が今まで目にした数多の英語によるプレゼンテーションの中でも最高度の完成度とわかりやすさを誇るものであり、インテレクチュアル・ヒストリーとしてだけではなく、英語発表という意味でも必見だと思います。)

  • 16世紀頃までの占星術の知的位置づけ


当時「星々の学」とされていたもののうち、天文学(astronomy)は天体の運動を数学的に研究する精密科学であり、また占星術(astrology)は天体の動きが地上に及ぼす影響を調査するものとされていました。占星術はさらに、回帰占星術、出生占星術、質問占星術、選択占星術と分類され、自然現象、日常生活から権力者の意思決定まで幅広く参考とされたものでした。ドイツの自然哲学者アルベルトゥス・マグヌスにより「自然知の正当な部門の一つ」として確固たる地位を確立していた占星術は、イタリア各地の大学における数学、自然哲学、医学の課程で必須のものとして教授されていたのです。ラトキンはイタリア各大学の当時のカリキュラム・教科書に着目することにより、大学教育というレベルにおいても占星術が重要な位置にあったことを論証しています。


天文学占星術質料形相論的なアリストテレス的自然哲学に基づく統合数学的自然哲学であり、アリストテレス的世界観に惑星の動きを加味することによって成立していました。「個々の場所それぞれのあらゆる本性と性質を理解したいと望むならば、[中略]星々のちからに由来する特有の性質をもたないような場所はないということを知るだろう。」(p182)とあるように、それはまさに知的な営みとして世界を説明しようとするものだったのです。


1496年に出版されたピーコ・デッラ・ミランドラの著作『予言占星術駁論』では、「星々の学」の予言的な側面に対する批判がなされます。天の影響は普遍的な作用因に限定されるべきであるという彼の主張に対し、ドイツのルター派諸領邦の大学で教育を受けていたティコ・ブラーエやヨハンネス・ケプラーといった人物は、占星術天文学的・自然哲学的基盤を改革しようと試みていきます。ティコは「星々の学」の観測的基盤をより精緻なものにしようと考えてヴェン島に天文台を建設、ケプラーはティコの観測結果を基に惑星楕円軌道の法則(ケプラーの法則)を導出すると同時に、伝統的占星術が奉じていた「黄道十二宮」や「世界の家」といった概念を否定し占星術の根本的改革を志向します。


興味深いのは、科学革命の通説的な説明においてはその嚆矢とされるこれらの人物が、占星術という「疑似科学」を根本から撲滅しようとしていたのではなく、その改革者として立ち現れているということです。ティコは観測結果を基にホロスコープを作成し、ケプラーもその著書『新天文学』に皇帝ルドルフの出生ホロスコープとしての意義付けを与えており、あくまでも既存の占星術の枠組みの中に居続けたことをラトキンは強調します。同様の視点はフランシス・ベイコン(自身の志向する帰納的方法を前提として、過去の記録を探索する歴史研究を行うことによって占星術の改善・改革を図ろうと提案した)やロバート・ボイル(惑星が希薄だが実体を伴った放射物を放出していることを認めた上で、それらを検出する実験を提案した)といった近代科学の先駆者とされる人々に対しても提示されています。


17世紀に入り、一部の専門書・教科書(クラヴィウスやルオーらの教科書)では占星術を排除するような方向性が見られるようになりますが、数学・自然哲学・医学の各分野において占星術は依然重要な位置を維持し続けました。イギリスにおいては一部占星術の教授を禁じるサヴィル定款(1619)が発された後も占星術は教育されましたし、医学分野に至っては18世紀中葉に至ってもなお占星術はカリキュラムの重要な一部分であり続けました。


しかし、そのような旧来の自然哲学的教育を受けたルネ・デカルトアイザック・ニュートンといった人々が、最終的に占星術に引導を渡すことになります。機械論的な世界観に拠ってたち、蓄積されつつあった観測結果から太陽系の広大さを認識していたデカルトニュートンにとって発散気のメカニズムはもはや機能するものではありませんでした。ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』の中でアリストテレス的な質料形相的枠組みを一掃し、観察・定量化・計測されるものを重視する姿勢を明確にします。17世紀後半において、少なくとも先端的な学知の中においては、占星術はほぼ完全に否定されるに至ったと言えるのかもしれません。

  • 18世紀、その後


ラトキンは18世紀の各種百科事典の記述も見ることにより、17世紀に起きた改革の試みと占星術の否定という過程が18世紀においてより広範な知のレベルにおいて繰り返されたことを指摘します。最終的に占星術が先端知の領域や大学のカリキュラムから消滅した理由について、ラトキンは詳らかにすることを保留しています。上述のような自然哲学内部での変容は確かに観察されますが、それをもって「学問分野の消滅」を決定付けるのは早計であるという態度の現れでしょう。その後占星術は民衆文化のうちに「活路」を見いだし、疑似科学としてのレッテルを貼られつつも現在に至るまで存続し続けています。

  • コメント(インテレクチュアル・ヒストリーとしての本論文)


本論文では15, 16, 17, 18世紀の知識人の著作、そのテクストを丹念に追うことにより、自然哲学・占星術内部においてどのような変遷があったのかを明らかにすることに加えて、教科書や百科事典といった文書にも着目することによって知の総体的な変遷を描き出そうという試みがなされています。まさにインテレクチュアル・ヒストリーの王道を行く研究であると言えるのではないでしょうか。反面、ラトキン自身も認めるように、占星術という「将来性を備えていた」(p195)学問体系がなぜ17, 18世紀に完全に根絶されるに至ったのかについての確定的な説明は十分ではありません。ラトキン自身は知の内部における変化(アリストテレス的世界観からデカルト的世界観への変遷、観測の進歩)がそれをもたらしたという内的な説明を中心に据えようとしているように見えますが、外部環境的・政治的な要因も排除してはいません。この点に対するヒライさんのコメント「一大学だけでなくヨーロッパ全域でほぼ同時に占星術が駆逐されたことから考えても、大学個別の政治的要因だけで説明するのは難しい」というのが印象に残っています。