坂野・2011「日本人起源論と皇国史観ー科学と神話のあいだー」(金森編「昭和前期の科学思想史」第三章)

明後日開催予定の合評会*1にて、「昭和前期の科学思想史」第三章「日本人起源論と皇国史観ー科学と神話のあいだー」(坂野徹)にコメントするのを前に、その内容をまとめてみました。


本論文の著者である坂野徹氏は、その著書「帝国日本と人類学者」において戦前・戦中・終戦直後の日本の人類学者たちの活動、特に旧植民地における人類学者の活動を科学史的に分析しています。今回の論考は前掲書で中心となった戦前日本人類学のインターナルな科学史ではなく、その延長線上において科学思想という観点に立つ事により、当時時局を支配していた歴史観皇国史観ーと人類学者・考古学者の日本人起源論との関係を解き明かそうとするものです。「国家公認の歴史」である皇国史観の体系化と広がりの中、人類学者・考古学者たちはいったいどのような議論を行っていたのでしょうか?


帝国日本と人類学者―一八八四‐一九五二年

帝国日本と人類学者―一八八四‐一九五二年

  • 日本人類学・考古学の黎明期ー人種交代パラダイムとその超克ー


日本における人類学・考古学、そしてそれらにおける日本人種論は、他の学問分野と同様にお雇い外国人の活動によってその歴史をスタートさせます。大森貝塚の発見で著名な動物学者モース(1838-1925)、シーボルト事件で知られるP・F・シーボルトの次男である公使館職員H・シーボルト(1852-1908)、地震学、鉱山学を講じたミルン(1850-1913)、医師のベルツ(1849-1913)といったお雇い外国人たちは、日本国内における発掘成果と古事記日本書紀*2(以下、記紀)に依拠しつつ、「先住民族たるアイヌ」と「それに取って代わっていった渡来日本人」という「人種交代パラダイムを提唱していきます。彼らの議論に影響を受けつつ、日本人学者による立論もまた人種交代パラダイムに沿ったものでした。その中には東京人類学会(後の日本人類学会)創設の中心人物であった坪井正五郎(1863-1913)もおり、人種交代パラダイムに沿った研究を進めていきます。この時期、先住民族アイヌではなくコロボックルであったとする坪井と他の学者たち*3の間で、いわゆる「コロボックル論争」が繰り広げられていましたが、無論人種交代パラダイムの範疇に沿ったものでした。


初期の人類学・考古学を支配していたこの「人種交代パラダイム」の背景には、「19世紀後半の西欧社会において、人類史を人種あるいは民族間の征服=交替によって把握する歴史観が一般的であったことがまず挙げられます。欧州における民族興亡史や新大陸における先住民族支配の歴史を経験していた欧州≒お雇い外国人、そしてそれにつらなる明治初期の人類学・考古学者たちにとって、上述の歴史観に依拠するのは自然な事でした。また記紀が史実を反映しているという前提のもと、神武天皇の東征神話(「日本人」による日本列島からの先住民族の駆逐)等がまさにこの人種交代パラダイムを強化する方に働きました。この流れが変わるのは、坪井らの次の世代の人類学者・考古学者たちが活躍し始めるのを待たねばなりません。


人種交代パラダイムの「超克」は、京都大学濱田耕作(1881-1938)をはじめとする次世代の人類学者・考古学者たちが推進した人類学・考古学の自然科学化と、日本各地における古人骨を含む遺跡発掘調査が本格化した事により成し遂げられます。濱田は、土器の差異(=文化の差異)は必ずしも人種の差異をあらわすものではないと主張し、日本人種論と人類学・考古学を切り離す役割を担ったとも評されます。この背景には、最先端の考古学を英国で学んできた濱田の、記紀のような文献資料に重点を置かない研究スタイルも影響したようです。濱田の他にも長谷部言人(1882-1969)、清野謙次(1885-1955)、松本彦七郎(1887-1975)らが古人骨の計測データ等の統計的解釈に基づき、人種交代パラダイムは非合理であり、日本列島には一貫して固有の日本人が生息し続けてきたという立場にたちます。彼らはまた記紀に対する立場も前世代の学者たちとは異なり、濱田(1922)が

考古学者が型式学的、層位学的研究の道程に、文献の援助を仰ぐ事は、此の方法を徹底的に完成する所以には非ず、考古学的資料を文献の奴隷脚注たらしむるのみにして、吾人の取らざる所なり

と述べているように、極めて懐疑的なものでした。発掘資料の増大と自然科学的手法の導入が、人類学・考古学における記紀の地位を相対的に低下せしめたと言えるでしょう。

  • 皇国史観と日本人起源論ー一部人類学者・考古学者たちの記紀への「転向」


1930年代後半以降、平泉澄(1895-1984)を筆頭とする一部の歴史学者の著作の中に現れだす記紀を根幹に据えた天皇中心かつ国粋主義的な皇国史観が台頭してきます。40年代に入り、文部省教学局編纂の「国史概説」(1943)等の「国家公認の歴史」にも皇国史観が現れます。筆者は「一九三〇年代中盤以降、文部省の編纂事業に現れた歴史観という意味で皇国史観を捉えた上」で、そのような歴史観と日本人起源論との関係について考察していきます。


かつて自然科学的な手法を重んじ、日本人起源論をその根源(すなわち、日本列島に誰もいなかった状態で渡来してきた「固有日本人」は一体何処から来たのかということ)からして問う事を避けてきた濱田や清野といった学者たちは、固有日本人説を曲げぬままに記紀の記述ひいては皇国史観にすり寄っていくかのような言説を見せ始めます。例えば濱田はその急死直前の論考(1938)において

大陸渡来の新文化に浴したる九州に居つた日本人は、我が皇室の祖先に率ゐられ近畿地方へ進出し、此のconsolidationを企てられたのが、神武天皇の東征でありまして、当時、近畿地方にも饒速日命の一族の居られた伝説によつて知られると同時に、土蜘蛛、国栖などの名によつて残つて居た、日本人に同化しきられないものも住んでゐたことが伝へられてゐます。

と述べ、記紀を含めた文献資料における神武東征神話を史実として語るようになっていました。筆者が述べるように「こうした濱田の『転向』がいかなる経緯で生じたのかを確かめる余裕はない」のが残念ですが、ここに1930年代以降の日本の言論状況の影響を見いだすのはあながち間違いではないのかもしれません。


濱田以外の人類学者・考古学者で記紀への回帰を最もあからさまに見せたのが前述の長谷部言人と清野謙次でした。長谷部は1942年に企画院に提出した「大東亜建設ニ関シ人類学研究者トシテノ意見」という文書において、

日本人は悠遠なる太古より日本に住したるものと信ぜらる。高天原の所在は今より窮知すべからずと雖、日本以外にありと言ふは日本になきを前提とする想像にすぎざるなり。

と述べる等、記紀を強く意識した記述を見せるようになります。特に長谷部の主張の中で特筆されるのが、現代日本人はすなわち固有日本人(長谷部の言葉を借りれば「日本石器時代人」)であり太古より連綿と純血を維持し続けてきた、という点でしょう。この「日本人の混血性の否定」は、皇国史観と必ずしも対立するものではありませんでしたが、一方で八紘一宇を是とする時局下にあっては、建前上朝鮮・台湾の人々もまた「日本人」とされていた以上、長谷部の純血説は広く一般に受け入れられるものとはなりませんでした。

一方、皇国史観に沿いつつ混血性という点も狡猾にカバーしたのが清野謙次の論でした。窃盗事件のために京大を退職していた清野は、1941年から東京にて国策団体「太平洋協会」の嘱託となり、人類学・民族学の知見に基づいて大東亜共栄圏イデオロギーを喧伝する言論活動を活発に行っていきます。清野(1938)においては、

日本国に初めて人類が渡来して日本石器時代を生じた[中略]爾来日本国には日本石器時代人種なる一種独特の人種が生存した。そして其後に於ても時代の下るに従つて大陸から、又南洋から種々の人種が渡来して混血したが、日本石器時代人を一挙して体質的に変化せしむる様な体質的変化はなかった

とされ、大東亜共栄圏を正当化する混血性の肯定と固有日本人論が見事に両立されています。そして清野もまた、濱田や長谷部と同様に記紀への「転向」をあからさまに表現するようになります。その著書「日本人種論変遷史」において清野は、

神代記に現はれる諸神の御活動は大体に於いて日本国内に於ける事件だと考へる可き

とし、かつて自身が強く否定した記紀神話への依拠を公然のものとします。

  • 結びー日本人種論の「戦後」


以上の経過を踏まえ筆者は、「日本人起源論と人類起源論との間に存在する懸隔を埋められるまま、一九三〇年代中盤以降、次第に皇国史観へと回収されていく人類学者の姿」が明らかになったとします。「大正期に登場した新しい世代の研究者は、生体計測や古人骨計測のデータなどに基づいて、それまでの記紀の記述に依存した人種交代パラダイムの乗り越えを目指したが、日本列島における先住民族の存在を否定した彼らは、国粋主義的風潮の高まりの中、再び日本人の起源を記紀に基づいて記述する道へと回帰して」いきました。


そのような議論の変遷は、筆者に言わせれば決して「心ならずの『転向』と捉えることは難し」く、彼らの議論はそもそも皇国史観と親和性が高いものであったとも考え得ます。そのような見方を補強する上で参考になるのが、長谷部や清野らの戦後の言論です。彼らは皇国史観の呪縛がなくなってもなお、記紀の記述や固有日本人論を手放した訳ではありませんでした。「かつて大量の人骨データに基づいて『間接材料』に依拠しない自らの『科学的』な日本人起源論を誇った清野」も、最後まで記紀に頼る事なく日本人の起源を語る事はできなかったのです。


昭和前期の科学思想史

昭和前期の科学思想史

*1:席には若干の余裕があるそうなので、休日を持て余した方はぜひどうぞ

*2:この2冊はそれぞれ1882年、1896年に英訳されている

*3:例えば小金井良精(1859-1944)。また坪井の死後、その弟子であった鳥居龍造(1870-1953))もまたアイヌ説をとった