JASTS&総研大ジョイントワークショップ-Allison MacFarlane氏とSulfikar Amir氏の原発立地問題に関する講演より

昨日表題の講演会に参加してきました。かいつまんで内容を。


まずはシンガポール南洋工科大学のSulfikar Amir氏が作成したドキュメンタリーの上映。インドネシアにおける原発立地問題を題材に、賛成派/反対派の声を様々な角度から捉えて描いた力作でした。


一番印象に残った点は、(欧米系)環境NGOの言い分を受け入れて建設を中止するのは国辱ものであり、原発建設というのは国力の象徴という観点から考えて必要である、と国会議員の一人が語っていたことでした。中国の空母保有と似たような構図ですね。


エネルギー問題の解決と同時に、こういったナショナリスティックな側面が開発途上国における原発開発に入り込んでいるという現状は非常に興味深かったです。先進国の価値観・視点では中々見えてこないことだったのではないかと思います。ちなみに氏の博士論文はTechnology and Nationalismという視点でインドネシアの航空機産業について論じたものだそうです。


そんな状況下でも草の根の反対運動はあるのですが、工学系・理学系でPhDを持つ活動家もいるとのことで、そういった「市民科学者」的な人々が地元の人と協力し、あるいは地元の人を啓発するという形で行われているとのことでした。


なお、放射性廃棄物の処理についてはまったくもって未定だそうです笑。


2人目の講演者は米George Mason UniversityのAllison M.MacFarlane氏。アメリカにおける放射性廃棄物最終処分場建設•原発建設に関連して、地質学者/地震学者と原子力工学者の断絶をSTS的な視点から明らかにした発表でした。


氏曰く、地質学とは過去に何が起きたか原子力工学者に比べて圧倒的に長いタイムスパン(前者はせいぜい60年、後者は10万年とか100万年とか)で研究し、アウトカムとしても定量的というより定性的なものが主流である(無論定量的なものも多々あります、年代測定とか)というものだとのこと。


地震学者はまた少し異なり、モデルを用いたり実験(人工地震とか)を行って研究を進めていくものであり、地質学と地震学の間にもギャップがあるそうです。地震学においては1970年代にプレートテクトニクス理論がパラダイムとして確立した訳ですが、世界の大半の原発はそれまでに建設されており、地震学の最新の知見を反映したものではないという指摘は重要だったと思います。


以上のような学問分野の特徴から、原子力工学者との間に対話が成立しにくい、というかそもそも対話がないという現状に対する懸念を繰り返し語っていました。(ちなみに、どうすれば対話がうまく行く?というフロアからの質問に、Drink Beer !と答えていたのが印象的でした笑。地質学はフィールドワークを中心とする”泥臭い”分野ですので、なるほどなという感じです)


原発立地や最終処分場建設にあたっては、モデルを用いた定量的なデータが政策決定の必要からも強く志向されており、エネルギー省が運用する「Total System Performance Assessment」という手法が用いられているが、地球を開放的なシステムとして捉えた時にモデリングに必要な変数を全て把握して将来を予測するというのは不可能に近いのだそうです。


むしろこのようなモデリングはある種Rituals of Assent(儀礼的なものーパブコメに対してよくある批判ですね)に過ぎないのではないかという批判はもっともな気もします。氏が上記の一連の見方を原子力工学者にぶつけてみたとき、必ず彼らは「でもこのモデルしかないんだからしょうがない」という答えを返すそうです。モデルによる評価→建設可能性の算出という一方向的な考え方に支配され、「予測できるモデルがないのなら評価もしない」という考え方に移行できないあたりが難しいなという印象でした。


最後の質疑応答では総研大標葉さんの問題提起が重要だったかと思います。原発立地や最終処分場建設といった政策的意思決定において、必要な専門家•専門分野を提案しピックアップする「専門性(メタ専門性みたいな)」とはいったいなんなのかということでした。


これを聞いて感じたのは、このような問題設定自体、原発事故のような専門性の機能不全に対して繰り返しアドホックに設定され続けてきたものではないかということであり、事前に「(危機に際して)必要な専門家を選別する能力」というものを本当に設定できるのか、むしろできないという前提に立って他の制度設計を考えた方がうまくいくのではないかと感じました。


原発と地震―柏崎刈羽「震度7」の警告

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