荒川放水路物語

荒川放水路の工事は、明治の終わりから大正をはさんで昭和のはじめまでの、世界と日本の歴史を背景に、掘削機が出現したり、不景気に見舞われたり、関東大震災に直撃されたりしながら進められていくのだった。歴史というものは、どこか遠い所での出来事で編まれていくような感覚をもっていた私にとって、歴史を刻むものはそこにあり、足元から学ぶんだ、と教えられたような気がした。―絹田幸恵, 『荒川放水路物語』まえがきより


1970年代初頭、足立区の小学校教諭をしていた絹田幸恵は、社会科の授業で荒川が人工的に掘削された河川である事を子供たちに教えます。掘削の歴史を知らない子供たちの反応は驚きと疑問に満ちたものでした。「うそだぁ。あんな大きな川、人間が掘れるはずないよ」「昔は機械、なかったんだよなぁ」「でもさ、なんで川を掘ったんだ」「この川、どっちに流れてんの」……子供たちの様々な疑問に答えられなかった絹田は、暇を惜しんで孤独な調査を開始します。放水路に関する包括的な書物がない中で、沿岸の家々を訪問し聞き取りを行い、また工事事務所に赴いて資料を複写したりしていきます。そして教員引退から2年後、一冊の本―『荒川放水路物語』にまとめます。技術史、いやむしろ川と人間の「生活史」とも呼べる本書を読みました。



荒川放水路物語
荒川放水路物語
posted with amazlet at 13.08.16
絹田 幸恵
新草出版
売り上げランキング: 287,086



岩渕水門に始まる荒川放水路(現荒川)が掘削される以前、現在の荒川を流れる水は現在の隅田川(旧荒川)に流されていました。川幅も狭く多大な流量をさばききれなかった隅田川沿岸では度重なる洪水に悩まされていました。江戸期から出水はほぼ毎年といっていいほど発生し、沿岸の農家(当時この辺りでは農業が主産業でした)はどこも屋根裏に船を用意して冠水に備えるのが当たり前でした。利根川の東遷を含む度重なる治水事業が行われたものの決定打とはならず、明治期に入っても大規模な洪水は後を絶ちませんでした。放水路を企画する直接のきっかけとなったのは1907年と1910年の大洪水だったと筆者は指摘します。後者については、1910年の夏の豪雨の際に荒川の堤防が13カ所にわたり決壊、王子や岩渕をはじめとして浅草や本郷付近までも浸水します(いわゆる「関東大水害」)。浸水家屋は27万戸、死者223人を数える大惨事であり、災害対応には軍も動員されました。


1907年の水害の後、東京市議会に対し流量を調整するために放水路を掘削すべきとの意見書が出されます。また1908年にも川口弥三郎議員から「荒川分水開削に関する建議」が出され、同時期に当時国内インフラの整備を一手に管轄していた内務省内部でも検討が始まります。当初放水路のルートについてはいくつかの案が検討されましたが、最終的に海から24kmの地点にある北区岩淵(現・岩渕水門)から掘削するという当初検討されたものよりも大規模かつ抜本的な案が採用される事になります。



荒川放水路回収平面図(荒川下流河川事務所ウェブサイトより)


  • 用地買収


本書では紙幅の多くを割いて用地買収の悲喜こもごもが語られています。筆者がかつて移転を余儀なくされた家々を回って当時を知る人に聞き取った内容が詳細に記されており、この工事が単なる「当時の土木技術の粋を集めて行われた一大プロジェクト」という肯定的な評価ばかりをくだせるものではなく、その土地に住む人々の生活に大きな影響を与えた事件であった側面にも注目させられます。


土木行政・執行を一手に担っていた内務省は1911年半ばに用地買収を開始、その後2年間で移転対象者の9割6分と買収契約を結ぶに至ります。一方、移転が行われる中で様々な問題が発生しました。農業従事者の新しい職探し、水面下に没することになる小学校に通う児童の転校先選び、先祖代々の墓を掘り起こしての移転・・・移転戸数1300戸という数字の裏には、補償金の授受だけでは語れない多くの苦労がありました。補償金そのものについても内務省の強大な権限もありその額は必ずしも十分なものとはいえず、おまけに受け取った補償金を銀行に預けたところその銀行が恐慌で倒産して全額失うという話も数多くありました。

今考えてみても身の縮まる思いがする。この先どうしたらよいか、ただ途方に暮れるばかりで、父や夫は毎日行き先の心配で走り回り、一家は夜も眠れない有様でした。買い上られる土地はたいてい七百円から千円位で、とてもよその土地を買うには足りそうもなかった。やっとのことでここに落ち着くようになったが、一家五人が生活を立てるようにやっとでした


―現在の西一之江に移り住んだ老婆の述懐(『江戸川教育百年史』から本書への引用)

  • 工事の経過


1911年以降、工事は買収と移転が完了した箇所から随時開始されました。工事の指揮を執ったのが内務省で技師として働いていた青山士です。青山は東京帝大を卒業後渡米し、パナマ運河の開削にも従事した水路工事のエキスパートでした。工事は主として人力による掘削により行われましたが、欧米から輸入したエキスカを複製してつくられた11台の機械や土砂運搬用の臨時軽便鉄道も活用しての一大工事となりました。工事の終結までには13年を要し、その過程でもまた放水路予定地を行き来する臨時通路の不足といったような現地住民の生活に密接する問題が頻発しました。



開削に用いられたエキスカ(エキスカベーター)(荒川下流河川事務所のウェブサイトより)


通水前年の関東大震災時には河底になる予定の空き地が避難所として大きな役割を果たしました。一方で筆者が聞き取り調査の中ではじめて知って衝撃を受けているように、震災時の朝鮮人虐殺の舞台となるという悲劇も発生しています。筆者の聞き取りに応じた墨田区のとある住民は語ります。

三日に、習志野から騎兵隊が来ました。兵隊は荒川駅の南、旧四つ木橋の下手の土手に、あちこちから連れて来た朝鮮人を、川のほうに向けて並ばせ、機関銃で撃ちました。撃たれると土手を外野の方へ転がり落ちるんです。でも転がり落ちない人もいました。何人殺したのでしょう。ずいぶん殺したですよ。私は穴を掘る手伝いをさせられました。あとで石油をかけて焼いて埋めたんです。ほかから集めてきたのも一緒に埋めたんです。いやでした。

  • 通水


1924年6月20日、13年の工期を経て全放水路における通水が実現します。後に行われた通水式には昭和天皇(当時は摂政宮)や都知事も出席し、ここに東京東部における治水事業の一大プロジェクトは完遂されます。総工費3144万6千円、延べ310万人が従事し、掘削された土砂の量は1億2700万立方メートルにのぼりました。


通水後の荒川放水路もまた都民の生活と密接な関係を保ち続けます。河川敷には多くの水泳場がつくられ、沿岸の子供達に水泳を教える場となりました。東京空襲時には避難所として大きな役割を果たし、大戦末期には食料増産のために河川敷は全て農地に変えられました。戦後の食料不足期には堤防までもが耕作地とされてしまった結果、1947年のカスリーン台風来襲時には弱体化した堤防が決壊し、以後堤防での耕作が禁止されるという事件も発生しています。


  • 絹田と荒川


本書執筆に至る調査の中で荒川が朝鮮人虐殺の現場となった話を聞いた著者の絹田は、その後遺骨発掘の活動を行うに至ります。建設省の許可を得て行われた2度の発掘調査では遺骨は出てきませんでしたが、絹田は亡くなるまで河川敷で行われる追悼式を主催する先頭に立ち、荒川と関わり続けていきます。


本書の前書きにおいて絹田は、

子どもたちの素朴な疑問から、荒川放水路の工事の話を調べ始めた私が、聞き書きしたその一つ一つの話にこれほど心を引かれたのはなぜだろう。それは、川を作る話は、そこに住み、生きた人たちや、その川の誕生にかかわった人たちの、つまり、人間の物語だったからではないだろうか。


と書き記しています。土木学会出版文化賞も受賞した本書の対象は必ずしも河川治水にまつわる土木技術だけではなく、そこに生きる人々の物語そのものだったのです。




近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々
高橋 裕 藤井 肇男
鹿島出版会
売り上げランキング: 577,499


川を巡る―「河川塾」講演録―
宮村 忠
日刊建設通信新聞社
売り上げランキング: 208,002


あわせて読みたい。国家による一大プロジェクトといえばなんといってもこれです。