科学技術動員と研究隣組―第二次大戦下日本の共同研究―

分野横断的研究の促進、基礎研究-応用研究-産業化という一気通貫プロセスの促進といった方向性は現代日本の科学技術開発の上で繰り返し強調されています。科学技術白書にも何度も現れるこれらの言葉ですが、そもそも研究開発における共同研究促進体制が初めて本格的に整備されたのは戦争に対峙する科学技術動員の一環としてでした。未だに「不十分」という評価がなされる学際共同研究や産学連携ですが、大戦下の試みはどのような意図で行われ何を残したのでしょうか?


青木洋, 平本厚, 「科学技術動員と研究隣組―第二次大戦下日本の共同研究―」『社会経済史学』68(5), 2003, pp501-522
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  • 科学技術新体制運動における研究体制に対する問題意識


1940年に政治体制の刷新を目指す近衛新体制運動が起こると、それに呼応して科学技術の刷新を目指す科学技術新体制運動も勃興します。1941年に企画院が「科学技術新体制確立要綱」を策定(のち、閣議決定)し、技術院の設立や科学技術研究機関の総合整備、科学技術審議会の設置が決定されます。要綱の策定と同時に出された「科学技術新体制確立要綱説明書」では「我国工業は……欧米技術の安易な輸入に汲々たる実状に在」り、「輸入技術なるものは……世界一流水準のものではなく、二流三流程度のものである」、「秘密主義、割拠主義より同一研究が同時に不必要に併行され」、「研究を即時活用するの途は殆ど開かれていない」との現状認識が示されます。輸入技術への依存から脱却する必要があるにも関わらず秘密主義や分野横断協力の欠如により研究の促進や産業応用が遅々として進まない、という上記のような危機感に苛まれた技術官僚達は、「基礎研究、応用研究、生産現場有機的な連絡」が必要不可欠であるとの信念に至ります。



前述の説明書には、科学者技術者の有機的連携を実現するための具体的手段として「研究隣組」の構想も示されています。しかしそれは必ずしも研究の最前線における協力を目指したものではなく、科学技術審議会の審議機能を強化するための専門委員会のような位置づけでした。省庁間の権限争いもあり、技術院による隣組構想は容易には実現に至りませんでした。一方で、研究現場に隣組の結成に積極的な姿勢を示していた組織が、全日本科学技術団体連合会(全科技連、学協会の連合団体)の下部組織である全日本科学技術統同会でした。


技術院の「別働隊」として研究隣組構想の実現を担った統同会は、「優秀技術の普及伝播と基礎研究、応用研究、生産技術の緊密なる連絡協力の高度なる実現」隣組の具体的目標に設定し、「隣組は基礎研究者、技術研究者、現場技術者を以て構成する」と定めて研究隣組の組織化を促進していきます。またその理念については、「科学技術者の国家奉仕の真義に徹したる自発的協力意思の組織であると共に技術的知識と能力との専門的、創造的組織」たることを掲げました。


  • 研究隣組の実態、研究者の認識変化


上記のような理念のもと組織化が開始された研究隣組は、国からの補助金も支出されつつ1943年3月からその活動を活発化させていきます。当初30組の研究隣組が結成され、数ヶ月に一度構成員が集まる会合を開いて連絡、議論が行われていました。最終的に152組を数えた研究隣組の中には予算獲得のみを目的とした当初の理念に反するものもありました。しかしながら多くの隣組では分野を超えて戦争に直結する研究開発テーマについて活発な議論が行われ、少ないながらも具体的な成果を出したものもありました。高誘電率材料に関する8012隣組では小川建男・和久茂・高橋秀俊他の共同研究による「チタン酸バリウム」の発見が成し遂げられたり、真空管の陰極材料の物性論的研究に取り組んだ8001隣組では酸化物陰極の基礎的研究が大きく進展したりします。


しかし筆者らが研究隣組について最も強調する特質は、研究隣組に参加した研究者・技術者たちの研究協力についての認識の変化でした。多くの構成員が回想で述べているのは、隣組発足以前の研究開発体制における連絡・協力体制の欠如に対して、分野横断的・産学連携的な議論・コミュニケーションの場を提供した研究隣組がそのような問題を改善していく契機になったという感想でした。筆者らはさらに、このような認識の変化は戦後の研究開発活動にも影響を与え、例えばエレクトロニクス分野における活発な共同研究などにその継続が見られると指摘します。研究隣組の経験は、戦後の共同研究開発活動の進展にとって重要な「制度的遺産」だったのです。



近代日本の研究開発体制
沢井 実
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