故井伊直弼を考課する――直弼五十回忌までの歴史批評

近江絹糸労働争議の解釈をめぐって市と編纂委員会が対立、新たに編纂した市史の現代版が出ない!?ということで話題になっている彦根市ですが、気になっていろいろ調べているうちにこんな論文にたどり着きました。維新後長く逆賊の汚名を着せられていた彦根藩主にして大老井伊直弼の名誉回復(顕彰と記念)はどのように行われてきたのか?2度に渡り編纂された彦根市史には、歴史の疼きとも言うべき複雑な記述が見られるのです。


阿部安成「故井伊直弼を考課する――直弼五十回忌までの歴史批評」『彦根論叢』第371号、2008年3月、p.47-78
ここからDL可


条約調印、安政の大獄、そして桜田門外の変・・・幕末日本の舵取りを担ったその壮絶な晩年はよく知られているところですが、彼の死後彦根藩滋賀県)では直弼名誉回復に向けての苦難の歴史がありました。取りつぶしにこそならなかったものの、1863年文久の政変で薩摩を中心とする公武合体派が実権を握ると、直弼顕彰の動きは保留を余儀なくされます。『彦根市史』下冊(中村直勝編、彦根市役所、1964年)の「近代編」によれば、

文久の政変後は、大老追罰の手がどこまで伸びるか測り難く、彦根藩の存続さえ危ぶまれる有様であったから、大老の偉業を伝える材料はすべて抹消されなければならないし、弁解や釈明すら危険を招来するだけで、大老の追慕とか遺徳の顕彰などは彦根の人々には思いもよらなかった。


とされています。二十七回忌等、身内で直弼を悼むイベントは年々拡大していきますが、より積極的に直弼の事績を讃えるという意味での銅像建立は依然苦難の道を歩んでいました。1889年の三十回忌の直後には桜田門外の変に関わった水戸藩士が靖国神社に合祀されており、敵役に対する積極的かつ当時の国家神道の枠組みでの最大限の評価は、直弼の「逆賊」ぶりを際立たせるものでした。1891年に「大老銅像建碑委員会」がつくられて貴・衆両院に働きかけた時も、内務大臣の反対に遭って計画は頓挫します。その後も幾度か銅像建立の請願が行われましたが政府は許可せず、1909年にになってようやく、直弼の条約調印により開港された横浜の開港50周年式典と合わせる(しかし行事としては別個)かたちで横浜・掃部山の銅像の除幕式が行われます。しかしその後も直弼の不遇は続き、1917年に大正天皇が来彦したときには井伊家の故人が何名か叙勲されたものの、直弼にはなんの沙汰もありませんでした。ここまでの事態を踏まえて1964年の市史(近代編)は、

開港五十年記念はその開国が行われた安政五年を起点としながら、それを断行した責任者井伊直弼は違勅の臣として顕彰せしめないという、まことに奇妙な出来事であった。これは維新以後における大老評価の一例にすぎないが、このような大老の評価が彦根人に対する、また同時に彦根人自身がいた抱いたコンプレックスに外ならない。


と解釈していました。1960年代においてもなお、直弼に対する否定的な評価は現代の彦根人に負の影響を与えるものとして記述されていたのです。また2度目に編纂された『新修彦根市史』(彦根市編集委員会編、彦根市、2003年)の資料編近代1では横浜、ついで1910年の彦根での銅像建立が名誉回復運動の一定の成果であるとしつつも、

安政の大獄で多くの志士を弾圧した直弼の評価をめぐっては、明治の末年においても依然として対立がみられ、横浜での除幕式も日程の変更を余儀なくされた。


とし、この時期の直弼に対する評価がなお、負の側面を強く持っていたことが示唆されています。1910年に彦根銅像が竣工した時、同年には靖国神社桜田烈士の大規模な慰霊祭が行われていました。筆者は一連の経過を捉えて、「条約勅許、安政大獄、桜田事変といった出来事が、直弼を肯定するものにとっても否定するものにとっても、いわば歴史の疼きとなって、直弼の評価や表現を安定させない」と結んでいます。


井伊直弼 (幕末維新の個性)
母利 美和
吉川弘文館
売り上げランキング: 648,924


開国前夜の世界 (日本近世の歴史)
横山 伊徳
吉川弘文館
売り上げランキング: 273,393


開国への道 (全集 日本の歴史 12)
平川 新
小学館
売り上げランキング: 208,250