十九世紀後半の中国における国際法をめぐる状況―ウィリアム・マーティンの書簡に基づく一考察―

列強の東アジア進出が本格化した19世紀後半、それはまた西洋の法秩序に東洋が「取り込まれていった」時代でもありました。中国で宣教師活動をしていた人物の国際法学者としての側面に着目し、当時の西洋・東洋における国際法をめぐる状況の多様さの一端を示した論文を読みました。宣教師にして法学者でもあったウィリアム・マーティンが万国国際法学会に送った書簡から見えてくるものとは?


原田明利沙「十九世紀後半の中国における国際法をめぐる状況―ウィリアム・マーティンの書簡に基づく一考察―」『東アジア近代史』, 第一六号, 2013年3月, pp.215-231

  • 東アジアにおける国際法の「受容」・・・という枠組みを超えて


東アジアにおける国際法の「受容」は、東洋史や法制史といった分野において長年課題となってきたテーマでした。しかしながら法制史の研究の多くはヨーロッパから非ヨーロッパへ向けられる一方向の視線に基づくものが主であり、ウェストファリア体制下で成立したヨーロッパ国際法が非キリスト教国へ拡散していく過程の分析といったような単線的なものが積み重ねられてきました。また東洋史においても、当時のヨーロッパ世界を一枚岩の国際法提供主体として措定し、そこから流れ出る国際法が「万国公法」等の翻訳を通じてどう受容されたかを分析するに留まるものが多かったと筆者は指摘します。


上記のような先行研究の整理の上に筆者は、「同時代に存在した東洋と西洋の間の国際法をめぐる動的で多様な状況の考察」を行う必要性を指摘し、まさにその「動的で多様な状況」の中心にいたマーティンの活動を、彼が残した書簡や万国国際法学会における議論の記録を見ることを通じて再検討していきます。


  • マーティンの書簡から見えてくるもの


ウィリアム・アレクサンダー・パーソンズ・マーティンは1827年生まれのアメリカ人宣教師で、若くして伝道のために中国に渡った人物です。その活動は布教に留まらず、語学力を買われて条約締結等の外国交渉の場で通訳として活躍した他、現地の教育機関で法学や英語の講義も行っていました。そしてまた法学博士だった彼は万国国際法学会の会員でもあり、中国における国際法教育活動の中心的な存在でもあったのです。


例えば、「ヨーロッパの国際法はいかなる条件下で、かつどこまで東洋諸国に適用可能か」という議題について定期的に議論が行われていた万国国際法学会に対し、マーティンが1885年に発送した書簡が取り上げられます。そこでは「万国公法」の翻訳に対する現地在住西洋人の反応(中国人に国際法の知識を与える事に対する賛同と反発)や、中国人官僚達の国際法に対する理解度(列強の進出に対抗するための武器としての国際法に意義を見いだす反面、国際法の基本原則である「相互に相応する義務を負う」という概念は理解しようとしない等)に関するマーティン自身の分析が記述されています。論文冒頭で筆者が指摘する「動的で多様な状況」の一側面がこの書簡の分析を通じて浮き彫りになっています。


またヨーロッパ(≒万国国際法学会)内部における東洋諸国を対象とした国際法適用・整備に関する議論の変遷も筆者は射程に収めています。議論開始当初の1870年代半ばまでは東洋諸国を「非キリスト教国」とひとまとめにして議論していたのに対し、法整備が進みその情報が西洋にもたらされるにつれてより個別的・具体的な議論が行われるようになっていきます。国際法の知を供給する源であった側においてもその内実は必ずしも一枚岩ではなく、「東洋諸国」の捉え方には変遷があり、国際法を絶対的に啓蒙すべきものとして扱っていたとは必ずしも言えない側面があったのです。


以上のように本論文では、卓越した語学力と国際法の知識で西洋と東洋の架橋的な立場で種々の活動に従事していたマーティンの書簡や、彼に対する同時代的評価、そしてまた万国国際法学会における議論の変遷が扱われ、「国際法をめぐる動的で多様な状況」の一側面が描き出されています。


近代中国の知識人と文明
佐藤 慎一
東京大学出版会
売り上げランキング: 1,363,119



国際政治思想と対外意識 (1977年)

創文社
売り上げランキング: 1,471,067