一九一〇〜五〇年代日本における美術史学の展開―学術インフラ、学問的アイデンティティ、研究費受給体制ー

学問分野はどのようにして独立・存続していくのでしょうか?美術史学における学術インフラ、学問的アイデンティティ、研究費受給体制を検討する事により、その具体的な過程と意義を明らかにした論文を読みました。筆者によれば、「1910〜1950年代の美術史学の展開とは、学術インフラ、学問的アイデンティティ、研究費受給体制が、漸進的に拡充されつつ緊密な連関を形成するなかで、三者の結節点に美術史学会を成立させながら、美術史学が学術研究の一分野として自立していく過程だった」のです。


なお、本論文は掲載誌が本学に所蔵されていなかったため、著者の太田さんに抜き刷りをご提供いただきました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。



太田智己,「一九一〇〜五〇年代日本における美術史学の展開―学術インフラ、学問的アイデンティティ、研究費受給体制ー」『カリスタ』第18号, 2011年, pp. 1–34


  • 前史


本論文で取り上げられているのは美術史学の上記三要素に大きな変動が生じた1910〜1950年代ですが、それ以前の美術史学は著者の言によれば国民国家”日本”を西洋に向けて示威するための文化外交的な手段として「日本美術史」が創出された」という状態でした。しかし、1910年代以降、このような評価軸では説明できない新たな動向が見られるようになります。


  • 学術インフラ*1


高等教育課程としての美術史教育課程が最初に設置されたのは、京都帝国大学文科大学哲学科に美学美術史学専攻ができた1906年のことでした。その後他の大学でも美術史専攻が設置されていきますが、それらはいずれも哲学などの「非歴史系学科」に設置されていたと筆者は指摘します。


研究組織(大学における講座等)とそれに付随する研究者ポストについても、美術史専攻として独立したものが設置されるのは1910年代に入ってからのことです。1914年に東京帝大に「美学、美術史第二講座」が設置されたのを皮切りに、1920年代には他の大学、研究所、博物館等において研究に従事できるポストが整備されていきます。


また専門学術ジャーナルについても、その多くは1930年代〜1950年代に創刊されています。「学術知が論文という結果としてアウトプットされ、学術ジャーナルに掲載されることは、他の研究者の引用、反証による学術知の拡大再生産が、恒常的、制度的に可能になる」と筆者が評するように、美術史学は学問として独立したインフラを整えていきました。


このような学術インフラの整備の集大成が美術史学会の設立(1949年)でした。同学会では初代常任委員13名のうち9名が1920年代以降の大学の美術史課程の卒業者であり、また11名が職業研究者ポストに所属していました。筆者も「美術史学会とは、一〇〜五〇年代の学術インフラの継続的な整備が結実した所産であったともいえる」とまとめています。



では、美術史学のディシプリンとしてのアイデンティティはどのように形成されたのでしょうか?そこには「哲学としての美術史」「史学としての美術史」のせめぎ合いがありました。


美術史学のアイデンティティに関する初期のまとまった論考として、ここでは土田杏村の「長谷寺銅板仏論」があげられています。土田は、文献を偏重する歴史学者の美術史研究に対し、哲学科に属している事の意義を発揮すべきと主張していました。そこには「哲学としての美術史学」という明確な自己認識が存在していました。


そのような自己認識は、1930年代に入り多くの論説で変節を露にします。「科学」としての美術史学への志向が生じたのです。野間静六がその1936年の論考で「(美術史学は)客観的基礎に立脚し推理に於て論理的妥当性を有する」必要がある事を指摘したのを皮切りに、前出の土田杏村、東京帝大の瀧精一らにより実証的かつ科学的で文献・史料批判を伴う研究の必要性が主張されていきます。


一方で、このような美術史学のアイデンティティについては論争もありました。そもそも確立された学問としてのアイデンティティはないとする1940年代の「美術史学未成熟論」がそれにあたります。美術史学者の内部からの自己批判とも言える一連の議論が表面化した背景には、学術インフラの整備が他の学問分野に比して相対的に遅れていた事への焦りがあったのではないかと筆者は推測しています。


しかしながら、美術史学の史学としてのアイデンティティは否応なしに確立していきます。1940年代の未成熟論と平行して、一部の論者は文献調査を軸においた歴史学としての立ち位置こそが美術史のあるべきところであると主張して行きます。「一〇年代の土田杏村が、文献重視の歴史学者による美術史研究の対極に"哲学としての美術史学"を構想していたのとは逆に、四〇年代には、文献史料による実証的分析の徹底(と、抽象的な造形分析からの脱却)こそが、美術史学の「科学」化"成熟"にとって必要だと考える思潮が生まれていたといえる。」と筆者は指摘します。歴史学者家永三郎が、文献史料に基づいた美術史研究(「上代倭絵年表」と「上代倭絵全史」)で日本学士院恩賜賞を受賞したことも、このような流れをオーソライズする方向に働きました。


このような経緯を経て、哲学ではなく史学としての美術史学が確立しつつあった訳ですが、そこには依然として哲学vs歴史という構図での論争が続いていました。家永三郎と中村二柄の二人の対立を軸とした「美術史学の対象論争」がそれです。家永が「美術史学は歴史に属するものであり、作品のみではなく、その社会史的・経済史的文脈にまで研究の対象を広げるべき」としたのに対し、中村は「美術史学の研究対象は作品に見出せる芸術意志と作風であり、生産や享受の問題は作品を本質的に規定するものではない」と主張しました。ここでは再び「哲学としての美術史学か、史学としての美術史学か」という論点が露になっています。


この論争は本稿で扱われている期間内にその根本的解決を見ることはありませんでしたが、論争を取り巻く環境は史学としての美術史学へと傾いていきました。筆者は1951年度の美術史学会賞の「新様式の成立ー転換期に於けるー抽象的理論ではなく造形美術の具体的な歴史事象によつて論証すること。地域、時代及び部門の如何を問はない。」という課題を取り上げて、美術史学会としては「史学としての美術史学」を推進する方向性を打ち出したとします。


依然として美術史学のアイデンティティに関する論争が続いていた最中、なぜ学会は美術史学が史学に帰属するという姿勢を見せたのでしょうか?そこには、研究費の獲得という問題が絡んでいた可能性を筆者は指摘します。


  • 研究費受給体制*3

分析視角の三番目、「学術研究の血」たる研究費の受給体制は美術史学においてはどうなっていたのでしょうか?


筆者の指摘によれば、最も初期のものは1921年に瀧精一が「中央亜細亜発掘古画ノ摸本作成」の完成にあたって給付を受けた啓明会からの補助であったようです。その後、1920〜1930年代に民間財団、文部省の精神科学研究奨励金、日本学術振興会などから研究費獲得が本格化していきました。学術インフラである「東洋美術文献目録」の刊行(末延財団の補助による)は、学術インフラと研究費受給との連関を示す重要な一例であると筆者は言います。


しかし美術史学における研究費の獲得額は安定しませんでした。筆者に言わせれば、「研究費の助成が「美術史」のカテゴリに対して直接的に行われていなかった」ことがその理由です。これは外部研究費が単なるエキストラなものではなく、美術史学のインフラ運営に関わる資金としての側面を持っていた事に鑑みれば、同分野にとっては致命的な状況でした。


1943年以降に科学研究費交付金が人文科学にも配分されるようになって以降、その所属カテゴリは「哲学、史学、文学」(1946年度)→「文学、哲学、史学」分野の下位カテゴリの一つ(1949年度)→「哲学」分野の下位カテゴリとしての「美学美術史」(1950年度)、そして「史学」の「美術史」(1951年度)と変遷していきます。


最終的に史学の一分野への所属を確立する背景には何があったのでしょうか?そこには研究費獲得を至上命題とする美術史学会から日本学術会議への「要請」があったと筆者は指摘します。1949年の美術史学会設立総会の際、「日本学術会議その他に於ける美術史の所属部門を哲学より史学に変更すべく」「要請」するとの決議がなされます。日本学術会議は翌年これを承諾し、「史学の中の美術史」という属性が確定します。


筆者によれば、この背景には、美術史学会の初代常任委員である吉川逸治の、「美術史研究が、哲学の下位カテゴリ【美学美術史】ないし【芸術学】に回収されてしまうと、演劇や音楽といった非美術プロパーの研究者が、美術史研究への配分審査を行う可能性を排除しきれず、美術史の研究費獲得に不利が生じてしまうことへの危機感」があったようです。


以上のような研究費受給体制に関する一連の出来事は、学問的アイデンティティが「哲学から史学へ」という変遷を経たことと軌を一にした動きでした。いやあるいは、後者が前者にあとづけされる形で変わっていったと捉えられるとも筆者は指摘します。美術史学会は「学問的アイデンティティを同じくする研究者が結束したインフラ」というよりも、「会員研究者に有利な研究費受給体制の実現を優先したインフラ」として設計されていたのです。

  • まとめ


結論部において筆者は「1910〜1950年代の美術史学の展開とは、学術インフラ、学問的アイデンティティ、研究費受給体制が、漸進的に拡充されつつ緊密な連関を形成するなかで、三者の結節点に美術史学会を成立させながら、美術史学が学術研究の一分野として自立していく過程だった」とまとめています。


「美術史学会は、既存の学術インフラの集大成であったど同時に、学問的アイデンティティと研究費受給体制が"哲学から史学へ"という方針のもとに結節してゆく際の"軸"として機能し、それにより、学術研究としての美術史学を独立させる役割を担っ」ていたのです。


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*1:本稿においては「高等教育の美術史教育課程、研究組織と職業研究者ポスト、専門学術ジャーナル」が学術インフラの内容とされている

*2:筆者の定義によれば、学問的アイデンティティとは「美術史研究が美術史学という学術研究であるという認識、さらに、他の学問分野との関係の中でどのような位置を占め得るのかという自己意識」とされています。

*3:本稿における「研究費」は大学の講座研究費などの学術インフラ内部の研究費ではなく、科学研究費交付金などの外部研究費である、と筆者は述べている。