櫻井錠二と日本近代における学術振興の展開

タイムラインが学振採用者の話題で盛り上がっていたので、日本学術振興会の設立に大きな役割を果たし、初代理事長に就任した化学者・櫻井錠二に関する論文を読んでみました。大学のグローバル化、基礎研究の充実、研究費の増加が一部で叫ばれる昨今ですが、100年前も同様だったようです。


山中千尋「櫻井錠二と日本近代における学術振興の展開」『科学史研究』263, 2012年, pp. 138–147




  • 櫻井錠二とは?


1858年、加賀・前田藩の士族の家に生まれた櫻井は、幼い頃から藩校や私塾で英才教育を受け、大学南校、開成学校を経て化学分野の官費留学生としてロンドン大学に留学します。エーテル合成で知られるAlexander W. WIlliamsonの指導を受けつつ、理学重視の校風の中で実験のみならず基礎や理論を重視する姿勢を身につけていきます。1881年に帰国した櫻井は東京帝国大学に職を得、有機化学分野の研究を行いました。「純正理学」としての化学を身につけていた櫻井は、教育や人材育成についてもその姿勢を貫き、国内における学術基盤の整備、学術の国際化を促進していきます。特に東京帝国大学理科大学長に就任した1907年以降、自己の研究よりも学術振興の基盤整備に傾注するようになります。一方で研究に十分携われないことに忸怩たる思いもあったようで、1912年に総長事務取扱に任ぜられてしばらくして「教授の本務以外に雑務の為に時間を潰すことが次第に多く成ったことを非常に遺憾に思った」と記しています。



第一次大戦の勃発により、諸外国に種々の製品を依存していた日本は学術研究を積み上げて工業を発展させることの重要性に直面します。学界で確固たる地位を築いていた櫻井は高峰譲吉らと協力して寄付金を募り、1916年に理化学研究所の設立に至ります。同年の全国道徳団体連合時局会における講演では、「今日の戦争は実に理化学応用の戦争であると言ても宜しいと思ひます。(中略)我経済は悲運の一方に傾くのみにして(中略)姑息な方法はいくらもありましょうが根本的決解法としては唯理化学研究を奨励し研究に堪能なる理数学者の養成に努むるの一途のみにである」と述べ、科学研究の充実が国力の増進に繋がるとの主張を展開しています。


1926年に帝國学士院長、ついで枢密院顧問に就任し政策決定者としての権力も手にした櫻井は、「我国に於て発表せらるる科学的業績の大部分、否殆んどその全部が世界に通用せざる邦語を以て書かれているが為めに、実際に於て知識の交換が行はれて居らぬのである。」という問題意識の下、第3回汎太平洋学術会議を開催します。学術の国際化に積極的に取り組んだ櫻井の真骨頂だったと言えます。


国力隆盛には人材としての科学者の育成が不可欠だと考えていた櫻井は、研究者養成と研究支援を行う機関設立を改めて提唱します。1931年初頭には運動を開始し、帝国学士院での決議、帝国議会における建議案の可決、そして天皇への進講を経て資金(御下賜金、政府補助金)を獲得し、1932年12月に財団法人・日本学術振興会が設立されます。櫻井は初代理事長に就任し、「官公私を問はす最適の人を選ひ自由に其の能力を発揮せしむることが望ましい」との方針の下で事業を推進していきました。


東京帝国大学退官時、櫻井は

自分自身の業績を考へるとき大学在職中学生の養成以外に学術の進歩に何等見るべき貢献を為し得なかったことに対し常に慚愧の至に堪へないものがあり(中略)長い年月の間苦悩を続けた而して其の結果遂に何か別に相当の事績を挙げて是非共罪滅をしなければならんとの固い決心を抱くに至つたのである。(中略)研究費の欠乏が其の一因であつたことも亦事実である(中略)そこで学術研究の一般振興の為に出来得る丈けの努力をして見たいといふ心持になつた


との言葉を残しています。本業であった化学研究で満足な実績を残せなかった彼は、その悔しさをバネに、学術基盤の振興に貢献していったのです。