京都学派と日本海軍-新史料「大島メモ」をめぐって

隣の部屋の本棚に転がっていたので手に取りました。「思想戦」に巻き込まれる事を余儀なくされた京都学派の思想と行動とはどのようなものだったのでしょうか?海軍の依頼を受けて行われていた会合の内容を描写するメモを手がかりに、京都学派の「反体制的な戦争協力」の実態が明らかにされていきます。





本書は三部構成になっています。大島メモそのものの書き起こしをまとめた第三部に対し、第一部「京都学派と日本海軍」では陸海軍をパトロンとする哲学者や知識人たちの思想戦の様相が概観されます。また第二部では、大島メモの発見を奇貨として、京都学派の歴史の中であまり取り上げられてこなかった大島康正と下村寅太郎という二人の著作を取り上げてその「精神史」が描かれます。史料の単なる紹介と分析に留まらず、それを明治・昭和の思想史の中に位置づけようとする筆者の試みがうかがえます。


大島メモとは、戦前・戦中に海軍の高木惣吉の依頼を受けて行われた十数回にわたる京都学派の会合の内容を大島康正がまとめたものです。当時京都大学の副手であった大島は、会合の内容をまとめて海軍に送付していました。その内容は当初「戦争の回避」を目的としていましたが、時局がうつろうに従って国内外の思想状況の分析、戦争理念の模索や国策是正の提言、東条内閣打倒を含めた戦争終結の展望、さらには敗戦後の展望までもがその射程に収められていきます。著者の言う「斬れば血の出る思想戦」の最中にあっては、その内容が外部に漏れ出る事は京都学派の政治的な死(と検挙などの物理的な危険)を意味していました。皇道派の執拗な言論攻撃に対して守勢に回りつつも、その内部では「日本的な特質を追求する一方で、これを独善的・孤立的、排他的なものにしてはならない」とする「世界史の哲学」に基づいた国策の議論が行われていたのです。


「思想戦」においてほぼ無抵抗に終わった京都学派でしたが、本書ではぎりぎりの戦いを迫られた彼らのささやかな抵抗も取り上げられています。国体明徴運動に関わる教学刷新会議の第三回総会において西田は以下のような主張を展開する意見書を提出しています。

我国の学問は基礎的研究に於いては、未まだ幼稚の域を脱せないと思ふ、今日基礎的研究の最も盛なる物理学といへども、未だ一人の<デイラック>一人の<ハイゼンブルク>すらあるを聞かない、精神科学に於いては、更に之に劣るものがあると思ふ。我国に於て独特の学問的基礎が確立せられざるに於ては、いつまでもその根幹にまで外国思想の浸潤を免れることはできない(中略)、それには優秀なる学者をして学問の基礎的研究に従事せしめると共に、かかる学者を養成することを計画せなければならない


文面上は文理にわたる基礎研究の重要性を指摘したものであり、一見して国体明徴運動の推進を許容しているかに思えます。しかし著者は、西田はこの意見書を通じて暗に「(国粋思想や)日本精神によって我が国の思想界を統一する事など無理」であることを指摘したのだとし、これに続く田辺の発言を評した「『このような会議の席上で発言することができた極限の一例』(中島健蔵)」という言葉を引用しています。