日中戦争下における基礎研究シフト-科学研究費交付金の創設-

5ヶ月くらい前に「誰かblogで取り上げないかな」と言っていた人がいたので取り上げてみました。科学研究費補助金の前身である科学研究費交付金、その設立には当時の情勢が強く影響していました。



水沢光(2012), "日中戦争下における基礎研究シフト-科学研究費交付金の創設-", 「科学史研究」第51巻(No.264), pp.210-219




  • 科学封鎖の実態


文部省による「学制百年史」等の記述によれば、1931年に勃発した満州事変以降の対中軍事行動に反応した各国の「科学封鎖」(書籍や物資の禁輸、留学生の受け入れ停止等)に対応するため、科学研究の根底からの変革を企図して科学研究費交付金が創設されたとされています。しかし筆者は、帝国大学新聞に掲載されていた「出版界の趨勢」や文部省在外研究員数の変化を基に、「科学封鎖」が本格化するのは第二次世界大戦勃発(1939年9月)以降のことであることを指摘します。


満州事変以降、日本製品ボイコットの影響により日本の貿易収支は赤字続きでした。1937年以降、為替管理政策の一環として洋書輸入制限が実施されましたが、科学研究に必要となる理工系の書物については例外措置が付され、1940年頃まで大きな影響はみられません。当時外国書籍の最大の輸入先だったのはドイツでしたが、1936年〜1940年は金額ベースの書籍輸入量は増加の一途をたどっています。その他の書籍輸入は激減しましたが、それは諸外国の積極的な「科学封鎖」によるものではなく、日本政府の貿易赤字対策に起因するものでした。いわゆる「科学封鎖」によって理工系の書籍が入手困難になるのは、科学研究費交付金創設後の1941年半ばのことです。


また、軍需物資の対日禁輸や留学生の受け入れ停止については1938年半ばに見られるようになりますが、筆者はこれらが「科学封鎖」として決定的な影響を日本の科学研究に与えたものではなく、科学研究費交付金の創設背景についてさらなる検討を要するとします。


  • 科学界の進言はなぜ受け入れられたか?ー科学振興調査会の設置とその提言


では科学研究費交付金創設をもたらした決定的要因は何だったのでしょうか?筆者はそれを「科学界からの進言」であったと指摘します。日中戦争により深刻化した資源不足に対応するため、日本の科学界は軍需関係の研究、特に不足資源の補填にかかわる研究を活発化させていきます。日本学術振興会の補助を得た「総合研究」の多くは戦時下の喫緊の課題に対応するため応用研究であり、一定の成果を出した科学界の発言力は増していきます。


一方、戦時情勢に対応する応用研究が行われていく中で、大学における物的・人的両面での環境の貧弱さが浮き彫りになり、科学界側は科学振興策の拡充を求めていきます。1938年8月に発足した科学振興調査会はその答申の中で、応用研究拡充のための研究費増を提言すると同時に、応用研究を成功させるためには基礎研究の充実も重要であると主張するに至ります。加えて、本格化していなかったとはいえ将来への危惧を誘発するに至っていた「科学封鎖」の可能性を考慮し、自前で研究を行うためには日本国内での基礎研究からの積み上げが重要であるとしたのです。


  • 科学研究費交付金の創設と「基礎研究シフト」


このような経緯を経て、文部科学省は1939年度追加予算において科学研究費交付金として300万円を計上します。この金額は日本学術振興会の研究費や科学研究奨励金等の既存の研究予算と比べて2倍近いものでした。そしてその多くは基礎的研究に費やされていきます。


戦時情勢下での応用研究の進行、その過程での研究環境の貧弱さの自覚、そして基礎研究の必要性の認識と科学界からの提言というステップを経て科学研究費交付金が創設され、筆者の言う「基礎研究シフト」が発生したのです。