映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』

「20世紀が終わる頃、ある裁判のニュースが世界を仰天させた。アメリカに暮らすマリア・アルトマン(82歳)が、オーストリア政府を訴えたのだ。“オーストリアモナリザ”と称えられ、国の美術館に飾られてきたクリムトの名画〈黄金のアデーレ〉を、「私に返してほしい」という驚きの要求だった。伯母・アデーレの肖像画は、第二次世界大戦中、ナチスに略奪されたもので、正当な持ち主である自分のもとに返して欲しいというのが、彼女の主張だった。共に立ち上がったのは、駆け出し弁護士のランディ。対するオーストリア政府は、真っ向から反論。大切なものすべてを奪われ、祖国を捨てたマリアが、クリムトの名画よりも本当に取り戻したかったものとは──?」


公式サイト:http://golden.gaga.ne.jp/about.html


(以下は感想、ネタバレあり)


なかなかスリリングな話で、楽しみにしていた映画の一つだったのだが、今ひとつ消化不良だった。一つは対オーストリア政府の法廷闘争の困難さの描写がイマイチ足りない気がしたまったくもって不足していると言わざるをえない。トントン拍子で米最高裁まで進み、最高裁の判決は電話で連絡(事実に即しているのかもしれないが)という地味さ。そこはゴールではないとはいえ、もう少し丁寧に描写して欲しかった。そして個人的に非常に不満だったのがオーストリアにおける調停の結果があまりにさっくり主人公の思う通りになってしまうところ。3人調停委員がいて「一人は原告が指名、一人は被告が指名、残り一人は中立」という形式で選ばれるのだが、弁護士の「結果はどうなるかわからない、運が良ければいいね」という前振りがあるにもかかわらず、調停で主人公サイドに絵の所有権があるという結論が出るに至る描写がほとんどない。これは非常に不満。当時オーストリアでどういう議論があったのか、なぜオーストリアで行われた調停でオーストリア政府にとって不利な決定がなされたのか、きちんと説明して欲しかった。


無論、この作品はハリウッド的に「絵が返還されてUSA!USA!」という大団円を目指したものではないというのは一応わかる。国を追われ、ふとしたことから「形見」を奪還することに情熱を注ぐ二人の人間模様を描くという目的を果たす以上、テクニカルにどういう困難ががありそれをどう克服したかということの描写は割愛せざるをえなかったのかもしれない。しかしこの人間模様の描写にも不満が残る。主人公は何度も諦めそうになりながら絵の奪還を目指す、そして時節、ユダヤ人であるがゆえにオーストリアから去らざるをえなかった主人公の過去が挿入される。ところが、その部分と絵の奪還に情熱を注ぐ主人公がどうしてもつながってこない。彼女はなぜ絵を取り戻したいのか、この絵は彼女にとってどういうものなのか、取り戻した絵をどうしたいのか・・・。確かに旧宅からナチスによって絵が持ち去られるシーンはあるのだが、あまりにも淡白で、伯母を描いたこの絵が彼女にとって持つ意味がイマイチはっきりと伝わってこない(おまけにその伯母は、オーストリアナチスがやってくる遥か前にこの世を去っている)。


(追記)私が「つながらない」と感じる理由を改めて整理してみる。映画の序盤、彼女の伯母の「絵を美術館に譲る」という遺言には法的拘束力がなく、かつ彼女の伯父の遺言では彼女に所有権が移ることになっているということなので、奪還を目指すということになる。じゃあ法的な瑕疵がなければ返還を求めなかったのか。引き裂かれた過去を取り戻すものとしてのあの絵を手元に取り戻したいのであれば、法的な瑕疵に気づく前から返還を求めるべきではなかったのか。出発点が法的な瑕疵にあるので、「チャンスきたラッキー!」みたいに見えてしまうのだ。

彼女にとって、絵がオーストリアにあることがいかなる不満をもたらしているのか。本作では現オーストリア政府をそこはかとなくナチスになぞらえるような描写があるし、彼女自身、忌まわしい記憶の場所としてのオーストリアに戻ることを繰り返し拒否する(それでも行くけど)。そういった場所に絵があるのは確かに問題だろう。しかしそうすると、以下に書くラストシーンが謎になる。(追記終わり)


ラストシーン、彼女はウィーン市内の旧宅に上がり込み、幸せだった過去に想いを巡らす。私はそこで彼女が「絵はアメリカには持っていかない。ウィーンの美術館からここに移して飾って欲しい」と言うのではないかと思った。このシーンは、それまでオーストリアに戻ることを拒み、そこに絵があることを嫌悪していた彼女の中で、過去の遺恨が少し和らいだ瞬間だったように思う。オーストリアやウィーンは嫌悪の対象かもしれないが、少なくとも旧宅は彼女にとって思い出の地として復活したように見えた。そこに絵が戻ることが、絵とともにある過去が彼女のところに「帰還」するということなのだと私は思う(これは映画なので、実際に主人公がどうしたかというのは別だし、私はあくまでも映画としてわけわかんないということを言っているつもり)。終盤に至るまで、家族との離散を余儀なくされた忌まわしいかつての祖国としてのオーストリアを描きながら、最終盤でその彼女の感情に揺れがみられたように感じたのだ。だが映画はそこで終わり、字幕で絵がニューヨークに飾られているという事実が明かされる。絵を美術館に売った金は、慈善事業に寄付したりしたなどというおまけもつく。こんなことなら、下手な人間模様など描かずに、極悪オーストリア政府を相手に正義のヒーローたるユダヤアメリカ人弁護士とかくしゃくとした老婆が万難を排して絵を取り戻すお話にしたほうがよかったのではないかとすら思う。


一応勉強になった点も書いておくと、絵を取り戻しに来た主人公に対してとあるオーストリア人が投げかける「ホロコーストにこだわるのはもうやめろ」という一言が印象に残った。過去としてのナチスはもうないが、その被害を受けた人々が「セカンドレイプ」されるような状況はいまもあるのかもしれないと想像させるいいシーンだった。


あとこれに限らず毎回思うのだが、洋画の邦文タイトルって本当なんとかならないのだろうか。「名画の帰還」などという説明的な言葉を付け加えることでいかにタイトルが陳腐化していることか。




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