人文・社会科学の国際化と言語の問題
人文・社会科学の国際化が不十分だ!という話は折に触れてなされる訳ですが、その実態はどうなっているのでしょうか?そして外国語に対する認識とは?人文・社会科学の国際化における問題について、定量的なデータを元に各学問分野における状況を分析した論文を読みました。
福田名津子, 「人文・社会科学の国際化と言語の問題」『一橋大学付属図書館研究開発室年報』1, 2013, pp. 43-60
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/25660 からDL可
筆者は①報告書「人文学・社会科学の国際化について」(2011年, 日本学術振興会人文・社会科学の国際化に関する研究会)、②「科学研究費補助金研究成果報告書」(一橋大学に関連するもの)、及び③「一橋大学研究者情報」という3つのソースを用いて、人文・社会科学の研究者が「国際化」という現象をどう捉え、どのような問題意識を抱いているかを描き出そうと試みています。①のデータが必ずしも十分でない事に鑑み、②と③のデータを重ね合わせて検証した上で、①で指摘されている言語の問題を概括するという構成です。
①で指摘されているような「経済学関係の論文では外国語率が高い」「歴史学では低い」、「理論研究では外国語率が高く、実証研究では低い」といった定性的な評価は、②や③で検証した「外国語率」(論文に占める外国語で執筆された論文の割合)の高低という定量的な評価*1とほぼ同様の傾向を示しており、①報告書の内容には一定の妥当性が認められると筆者は指摘します。
その上で筆者は、①報告書で指摘されている「人文・社会科学と言語の問題」を総括しています。例えば法学では「日本の法律用語の基本概念の多くはヨーロッパ大陸法にあるためこれを英語に置き換えようとしても『概念間の齟齬が生じ、正確な情報交換が成立しない事がある』」と指摘され、経済学においても実証系の主題では「各国に特有の経済・文化の相違を外国語へ翻訳することの難しさが伴う」と指摘されています。
社会学から「英語の標準化が学問世界で進みつつあるのは『市場の論理』によるもので、こうした傾向は英語以外の研究成果をその内在的な価値とは無関係にローカルで劣ったものと位置づけかねない」という「英語帝国主義」に対する批判が出る一方で、東洋史学では「中国史研究者は国籍を問わず中国語が理解できるのだから中国語でコミュニケーションをとるほうが良い」というオルタナティブともいえる見解が提示されています。筆者も、研究対象となる資料に用いられている言語で研究成果を発信することには一定の合理性があるとしています。
しかしながら「国際化」「言語の問題」と一口に言っても、想定する発信対象によってはやはり英語は有力なようです。専門家集団よりも幅広い層に発信するにあたっては、①報告書最終章における「日本には日本語でなければ表現できないものがあるという議論もあろうが、その種のことでも英語でなければ読まれない」という記述は英語の優位性を認めていると言わざるを得ません。特に東洋史学のように、英語圏のニーズが高度に専門的な著作よりも「良質の啓蒙的著作」にある分野では、対象が非英語言語で記述されているとしても一般向けの発信を目指すならやはり英語で記述せざるを得ないという「国際化の多層性」が現れます。
最終的に筆者は、人文・社会科学の国際化を英語化と単純に同一視することは出来ず、目的と対象に応じて多言語化と英語化が同時に進行するのではないか、と予測しています。
*1:数値の詳細については原著論文を参照のこと