公開講演会「危機と科学」メモ

既に昨日のことですが、駒場にて科学史科学哲学研究室主催の講演会「危機と科学」が開催されました。日頃講義をしてくださっている先生方の講演とあって、研究室メンバーの多くが参加していたようです。会場は駒場の奥まったところにある16号館1階の講義室、一般の方も含めておよそ40人程度が来場していたようでした。


以下は、私のメモに基づく本講演会の概要です。拙い文章ですが、参考にして頂ければ幸いです。なお、あくまでもメモに基づくものですので、先生方がお話になったことと100%一致するわけではありません。私以外に来場されていた方でお読みになりお気づきの点があれば、是非ともご指摘頂ければ幸いです。

追記:岡本先生のご指摘を受けまして、一部加筆修正しました(6月1日)


なお、twitter上でも指摘があったように、本講演会は告知・ネットでの中継など極めて不十分と言わざるを得ませんでした。大学内の公式行事をネット経由で発信することについては、広報部との折衝などいろいろ面倒らしいのですが、私のような研究室内部の人間がもう少し頑張ればよかったのかな、と感じているところです。


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公開講演会「危機と科学」
東日本大震災後の様々な動きを踏まえて、科学技術のリスクに関する知識、情報、行動を、科学史・科学哲学の観点から考えていきたいと思います。

日時:2011年5月30日(月)午後18時〜19時30分 
場所:16号館1階119/129号室
参加無料・事前登録不要
講演:岡本拓司准教授 「危機と科学―人々は科学技術のもたらした災厄からどのように身を守ろうとしたか―」
コメント:石原孝二准教授 「リスクと合理性―リスクコミュニケーションと「風評被害」―」
司会・ディスカッサント:信原幸弘教授、橋本毅彦教授

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岡本先生の講演内容(筆者のメモによる)は以下のとおり。



脚気対策と天皇による終戦の決断という二つの事例を通して、危機に際して人々が如何に決断を下したのか、科学・専門家はどのような役割を果たしたのか、を探る試み。


脚気は、戦前期は毎年5000〜10000人の死者を出すメジャーな病気であった。白米食中心の江戸によく見られ、「江戸病み、江戸わずらい」とも呼ばれた。漢方医遠田澄庵によれば、脚気は白米食に起因するのであり、玄米食脚気の治療法として有効であるとのことだった。しかし漢方はあくまでも民間医療としての地位を脱することが出来なかった(筆者注:むしろ明治27年、帝国議会により漢方医学の国民医療から排除する決議がなされている)。そんな中で行われた、海軍医の高木兼寛vs陸軍医の森林太郎森鴎外)による脚気の原因に関する論争は有名である。


高木が食物(コメ)原因説を主張したのに対し、森は細菌原因説を主張した。高木は玄米食の船、白米食の船を比較して経験的に白米食脚気の原因であることを突き止めたが、その科学的理論化には失敗した。つまり、「なぜ白米食脚気の原因であるのか」という点に関しては高木*1は分からぬままだった。(追記)なお、高木は当時の日本では珍しくイギリス医学を習得していた。


森、あるいは東大医学部と陸軍医務局は細菌説に依拠していた。当時の日本では珍しくドイツ医学を習得していた森は、その科学知識啓蒙を強固に推し進める姿勢に加えて、陸軍軍医副総監としての権威も利用して脚気細菌説を主張・流布した。


脚気の原因がビタミンB1の不足に起因するという科学的知識は戦後(追記:第一次世界大戦後)になって確立された。しかし明治期の段階では経験的には正しかった鈴木の説は多数説とはならず、森・東大医学部・陸軍医務局の主張する脚気細菌説が支配的であった。




当時脚気は一般的な病であり、また糧食状況が劣悪になる戦場においても大きな課題だった(日清戦争では戦死者1300人に対し脚気による死者は3900人、日露戦争では動員された109万人余りのうち、脚気罹患者は17%にも上がった)。


このような状況(=脚気という”危機”)に対して、人々はどう対応したのだろうか?一例としてあげられるのが明治天皇の対応である。おばが転地療養先で脚気で死ぬのを見た明治天皇は、脚気にかかっても医師の勧めを断り、麦飯を食べて治療したとされ、また政府高官にもこれに倣うものが多くいた(例えば品川弥二郎)。


脚気対策から導きだされる危機に際しての人々(とはいっても明治天皇と少数の政府高官に限られる)の対応、つまり科学との付き合い方は次のようにまとめられる。すなわち、専門家の説得には従わない、民間療法に従う、学術議論に付き合わない、自分の力の及ぶ範囲で自衛策をとる、安全と思われる療法を自ら試みる、ということである。



以上のような対応様式は終戦の決断(聖断)にもみられる。


終戦の経緯については、原爆説(原爆の投下が日本政府首脳部に終戦を決断させたとする説)とソ連参戦説(ソ連の参戦によるとする説)という2説がある。終戦に必須となるポツダム宣言受諾の際大きな問題となったのが、「国体の護持」という大目標であった。ポツダム宣言は国体の護持を保証しておらず、その意味において日本政府が受諾を決断することは不可能に思われた(その経緯は(追記:岡本先生の結論とは趣旨を異にするものの)鈴木多聞著「終戦の政治史」に詳しい)。



しかし、原爆(という科学に起因する危機)に接して、政府内部における継戦派と終戦派の論争は激化することとなる。長崎に2発目の原爆が落とされたことを契機に、「2発目があるということは3発目もあるのではないか」(実際にはなかった)という恐怖が日本政府を覆った。


例えば陸軍は、仁科博士の推定や、米軍捕虜を尋問(ていうか拷問)して得た情報から、アメリカは250個前後の原爆を保有すると推定していた。一方で、継戦派(=軍事の”専門家”)の主張では、原爆は対策の方法があり、満州での対ソ戦に勝利の見込みが無いことを考えると、国体護持のためには本土決戦致し方なし、というものであった。そこにでは「国民の生命」という目標は副次的なものでしかなかった。


しかし終戦の聖断を下した昭和天皇は(国体護持という大目標に囚われた)継戦を主張する軍事の”専門家”の意見を無視した。終戦詔書では原爆について直接言及しなかったものの、それを暗示するような表現を用い、国家の大目標の変更(「国体の護持」→「国民を守ること―”万民を塗炭の苦しみから救う”」)を決断した。史上初の人類絶滅兵器の使用が天皇の「逸脱」をもたらしたといえる。


終戦詔書の6行目、16行目、18行目を見ても、このような大目標の変更は明らかである。原爆という「科学がもたらした危機」に際して、天皇は「(国体護持に固執していた一部の)軍事の専門家の識見」を無視して決断を下した。図式化するならば、専門家の判断を退け、従来の議論の経緯を無視し、「身体感覚」の範囲で危険を察知したといえる。このような例は他にもみられる。例えば天皇への直訴by田中正造や、原発建設に際しての住民投票in巻町などである。


結論としては、科学以外に利用可能な資源、すなわち政治、文化、世論などによって、”専門家”が下す科学的判断は根底から覆されることが「あった」ということである。無論、科学的知見が人々を災厄から救うケースも歴史上多くある。しかしこの2例を見るに、人は危機に際して科学を超えた判断を下していたのである。


石原先生のコメント(時間の関係上、スライドを飛ばし飛ばしでの発表となったので、ホントにメモ程度です)

気象学会理事長によるメッセージは「科学の統制」ともいえるものだった。


風評被害は、harmful rumor, damage caused by rumor, rumor damageなどと訳されるが、厳密に対応する言葉があるわけではないようだ。元々は取り付け騒ぎを示すものだった。


科学が不確かな知見(=仮説)しか提供できない段階では、それに依拠した合理的判断がどう行われるかは以下のように分類できる。


仮説1.閾値線量がない→逃げる
仮説2.閾値線量がある→モニタリング数値や行政による処置を注視して判断
仮説3.ホルミシス効果→同上


ここでは仮説の競合状態が生じており、解消されるのを待つか、あるいは各自の信念とリスク戦略、経済社会的状況を踏まえて判断するかということになる。


風評被害発生は、すなわちリスク認知研究(1970〜)における、スティグマ化とコンタミネーションを起こしているのではないだろうか?


風評被害」という言葉の変更が必要なのではないか→過剰で非合理なリスク回避行動によって生じる営業損益―1と定義するか、行政の規制の原因となった事象を原因として、規制の範囲を超えて広がる営業損益−2と定義するか?


リスクコミュニケーションにおける禁句→「他のリスクと比べればたいしたことはない、実際の危害は補償される」と言ってはならない。


その他:予防原則、手続き的合理性と実質的合理性(定義はThe Oxford Handbook of Rationalityを参照)、スターの議論、限定的合理性(Bounded Rationality)


長くなりましたが以上のような感じでした。以下コメントです。


会場からの質問はいろいろありましたが、やはり”専門家”という存在をどう定義するかが一番の問題だったと思います。学科の先輩Nさんの質問では、いずれの例においても主役である天皇は果たして”非専門家”なのか?そもそもこの講演で言われている専門家とは何なのかという点が問題とされていましたが、それに対する明晰な回答は得られなかったのではないでしょうか。


ちなみに岡本先生は、「国体の護持という大目標をひっくり返したのが素人っぽい」と仰っていました。政府首脳を支配していた国体護持という”パラダイム”をひっくり返したという意味では、天皇はその”パラダイム”における”専門家”ではなかったという意味でしょうか・・・。


個人的に気になったのは、岡本先生の2度目の原爆投下には意味があった、とする主張でした。これは、「1発だけならそれで終わりかもしれないが、2発目が落ちると3発目もありうると思うようになる。数学的帰納法のような感じ」ということだったのですが、先生は私の質問に対して、広島=福島原発そして長崎=浜岡原発というアナロジーを考えていたのではないと仰っていました。


しかし、地震発生に対する確率的評価、ひいては地震学や津波対策における工学それ自体が信頼を失っていることを考えると、「2度あることは3度ある」的な疑心暗鬼は今も昔も共通するもののように思います。原爆のケースでは2発目を落とされるまで岡本先生の言うような大目標の転換は生じなかったわけですが、原爆のケースでは福島の事故の後に浜岡を止めるというある種の大転換がなされた、と比較することはできるのではないか、とふと思いました。


全体的には、興味深い視点が数多く提示された講演会だったと思います。個人的には歴史と現在をどう「接続」するかという点に興味があったので、非常に有意義だったと感じています。

※講演会終了後勢いで書いたものなので、いずれまた加筆修正するかもしれません。

*1:窒炭説と呼ばれる、窒素と炭素の特定比率での摂取により脚気が発生する、というような内容だったはず