熟議に基づく教育政策形成シンポジウム(熟議編)

 去る4月17日土曜日、文部科学省主催の「熟議に基づく教育政策形成シンポジウム」http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/22/04/1292425.htm)というイベントに参加してきた。

日ごろ拝読している名古屋大学田村哲樹先生のbloghttp://d.hatena.ne.jp/TamuraTetsuki/)で偶然その存在を知り、締め切り前日に申込むという慌ただしさではあったが、無事一参加者として議論することが出来た。また様々なバックグラウンドを持つ方々と交流することが出来、シンポジウム後の懇親会にまで出させて頂いた。お会いしたすべての人・運営に関わった方々にまずは感謝申し上げたい。

小泉郵政選挙以来、日本における民主主義とはいかなるものでありどうあるべきかというテーマには常々興味をいだいてきた。その過程で読んだ森政稔著「変貌する民主主義」(ちくま新書・2008年)の最終章において、熟議型民主主義が紹介されていたことを契機として、ポピュリズムの先にある「熟議」の可能性を考えるに至った。

教育というテーマに興味がなかったわけではない(特に大学運営に関してはかなり問題意識がある)が、今回参加したのはそれ以上に上記にあげたような民主制(政)の可能性を考える一助とするためであった。おそらくは日本で始めて「熟議」の名を冠したイベントであっただろう。熟議と言う言葉が中身を伴わずに一人走りしてもしょうがないが、まず第一歩目としては成功だった思っている。


このエントリでは議論の主題であった「小中学校をよりよくするにはどうすればよいか?」については扱わない。後で教育編を執筆するつもりなので、私のいた班で具体的にどのような議論が行われたかについてはそのエントリで紹介したいと思う。このエントリではむしろ、キックオフとなった今回のシンポジウムを熟議という観点から考えてみることとしたい。


とまで言っておいて、熟議なるものを私がきちんと理解しているかと言うとそうではない。しかも、政治思想・民主制(政)等を専門としていらっしゃるkihamuさんがかなり詳細な傍聴記(http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100418/p1を執筆されている。この傍聴記のレベルはかなり高く、なまじ私などが同じ構成で書くとkihamuさんに失礼な気がしたのだが、私なりに気づいたこと、感じたことを書き留めるくらいのことはしておきたいと思う。



1.これは熟議か?


熟議、と銘打って始まったイベントではあったが、私の班では半ばブレーンストーミングとも言える流れで問題点を一通り洗い出したところで終了となった。議論は自己紹介及び各自の問題意識を簡単に説明した上でスタートしたが、ファシリテーター文科省職員の方があまり介入せずに進めてくれたため、そもそも学ぶとはどういうことか?「楽しく」学ぶためにはどうすればよいか?といった根本的な部分まで議論出来たのが印象的だった。私自身気をつけていた事ではあるが、揚げ足取りのような議論の応酬が生じるといったことはなく、皆互いに尊重しあって議論出来ていたと思う。初対面であったにも関わらずそれなりの議論ができたのは、やはり場の雰囲気といった要素も強かったのではないだろうか。文部科学省の主催、副大臣の来場といったことによって場にそれなりの厳粛さと権威が与えられたこともあってか、皆言葉を選びつつ意見を表明しようとしていたのが印象的であった。


民主党の造語によれば、「熟慮して討議する」のが熟議ということであったが、熟慮するという点に関しては若干不足だったのは否めない。休憩時間に関するアナウンスも中途半端だったし、休憩に入っても初対面の人が多かったのでとりあえず挨拶を繰り返すという場面が多々受けられた。一方で、当初多いと思った13人という人数ではあったが、発言者が多いが故にそれなりに他の人の言葉を反芻したり自分の意見をまとめる時間があったのも事実である。


いただけなかったのは最初に行われた文科省職員のマクロデータ読み上げである。資料の完成度の高さは認めるが、あの時間は無駄であったといいたい。事前に参加者にメールで配布するかDLするように要請すれば済むことである。読み上げをする時間があるなら議論に当てるべきだっただろう。



2.バックグラウンド、メンバーシップ


私自身は田村先生のblogで知って申込んだわけだが、他の方、特に教育関係者の方は「誘い合わせて来場」というケースが多かったように見受けられた。私の班では教員・教育委員会の方が5人、NPO・教育産業の方が4人、定年後の方が1人、学生が3人の計13人という構成(他に司会の文科省職員2名、NPOの方or政務官or鈴木副大臣がオブザーバー)だった。教育関係者が多かったせいか、話が通じないといった場面は見受けられなかった。教育の現状に通じているということもあると思うが、やはり「みなほぼ同じような義務教育・高等教育の過程を経て育ってきた」というバックグラウンドの共通性が、議論の食い違いを防いだように思う。また、子どもがいて教育者であると同時に保護者でもあるという方が何人かいたのだが、みな教育者としての立場で意見を言っていたのが印象的だった。


ここから考えるべき課題としては、例えば雇用問題について労働者と経営者が熟議する、といった場合のことだろう。そもそも立場が真っ向から異なる人々が議論する場合はどう場の設計をすべきだろうか。一つの解としてはファシリテーターにある程度の権限を与えて強制的に仕切るということもあろう。ブレスト的な段階ではあまりファシリテーションは必要な感じはしないが、今後何らかのアウトプットを多様な参加者の熟議に求めるということを想定すると、目標に向けて常に議論を整理し指導するファシリテーターの存在が重要になってくると思う。


続きはネットで、という話ではあったが、このような熟議の場を定期的に持つことを想定すれば、メンバーシップについてもう少し考えなければならない。場だけは継続的に開かれても、毎回来る人が異なるというのはあまり望ましくない(タウンミーティングとあまり変わらない気がする)のではないだろうか。今回はそもそものテーマが「小中学校をよくするにはどうすればよいか?」というナショナルレベルのものだったため、おそらくはあらゆる日本国民が利害関係者となるはずである。そういった中でどう参加者を選ぶか・メンバーシップの継続性と多様性をどう両立するかが課題だと思う。たまたま文科省のHPを見ていた人が参加出来るというのでは問題だろう。


またとある班の問題提起として「当事者である小学生中学生がこの場にいない」という点があった。果たして小学生が議論出来るのかという点はさておき、私が問題意識を持っている大学教育に関する議論において大学生の参加があまり活発ではないという点を鑑みれば、今後は児童・生徒・学生をも取り入れた熟議を行うことは一考に価するかもしれない。



3.どのように実施されたのか?鈴木寛文科副大臣に見るアメリカ的「政治主導」


事後の懇親会に参加して判明したのだが、今回のシンポジウム開催にあたっては文部科学省の主体的なコミットメントがあったというよりは、鈴木副大臣の私的ブレーン(SFC,東大を中心とするゼミ出身者等)が大きな役割を果たしたようだった。ここにはアメリカ型の政治主導システムが色濃く反映されている、と感じたのは私だけだろうか?アメリカでは政権交代が生ずると、局長レベルかその下くらいまでの行政官が総入れ替えになる。トップが自分が必要とする人間を要職につけるわけだ。今回の企画を行ったチームの皆さんは殆どが手弁当(あるいは文科省から薄給をもらうのみ)ではあったが、「外部」の人間が主体となって新たな政策を企画したという流れはアメリカ的な意味での政治主導に近いように思う。


無論、公務員試験を経て宣誓を行っている公務員や選挙の洗礼を経ている政治家とは別の存在が政策形成(この場合は、シンポジウム開催&サイト開設)のコアに匿名(?)という形で関わっているのに若干の違和感を感じたのは事実である。「選挙で選ばれた政治家が選んだ人」である以上問題はないのかもしれないし、私的ブレーンなんてどの政治家にもいるわけだからいいといえばいいのかもしれない。遍く国民を招待して行う熟議というイベント自体が、政策形成過程への政治家&公務員以外のコミットメントを求めるものだから、この点を批判するのはナンセンスかも知れない。しかしながらこの点に関して政治家の皆さんは慎重になるべきだと思う。自分がどのようなブレーンを用いて意思決定を行っているのかということは、国民に対して出来る限り明らかにしていく必要があるのではないだろうか?



4.その他


非常印象的だったのが、終了直前の文科省一年目氏の挨拶だった。他の有識者が長々とコメントをする一方、彼は一言「皆様の生の声を聞いて行政官として身が引き締まる思いです。」というような趣旨のことを簡潔に言っていた。私自身は過度に国民と行政官がつながってもそれはそれで問題(典型的には官民癒着)だと思うが、霞が関というナショナルレベルの行政を扱っている場ではアクチュアルな「国民」というものの存在が希薄になりがちな中で、誰もが利害関係者であると言える教育に関してこのようなイベントが開かれ、そこから行政官が(政策的なインプリケーションには程遠いかもしれないが)示唆やモチベーションを得ていくことは促進されてしかるべきだと思う。


また金子先生が仰っていたように、真っ向から意見が対立する場面はあまり見られなかったようだった。私の班でも多少の意見相違こそあれ、喧々諤々の論争というところまではいかなかった。日本人が(特に初対面の人に対して)苦手とする相手と異なる意見を表明し議論する、と言う点に関しては、まだまだだなぁという気がした。無理に論争する必要はないが、場の空気に同調しようとする余り少数意見を自ら封じ込めてしまうのは残念なことである。



5.最後に


いろいろと批判はあるのだろうが、こういうイベントは続けていって欲しいと思う。個人的な提言は以下である。


・経験と能力があるファシリテーターにある程度の権限を与え、より要点を絞った深い熟議が行えるように制度設計する。

・ホワイトボードを用意し、議論の流れやその時点での論点などを可視化する。

・いくつかの班に分かれて行う場合、ああいった大ホールでやるよりも小会議室で行った方が声が聞こえやすい。

・地域レベルに落としこんで開催し、利害関係者を絞り込むことによって、メンバーシップの継続性を確保する。

・(kihamuさんも仰っていたことだが)文科省職員も一アクターとして参加する。実際、「文科省の意見を聞きたかった」というコメントを複数の参加者と懇談する中で得た。

・熟議そのものの民主政における位置づけを明確にし、参加者に周知徹底する。


最後の点をなぜあげたか。これは、日本人の政治参加へのモチベーションの低さに私が問題意識を持っていることによる。投票率の低下が問題視される中で、こういった熟議がなぜ行われるのかといった点を明確にすることによって、個別具体的な問題の議論をしつつも「民主主義国家の一員である」という意識を醸成できるのではないかと考えるからだ。


以上、熟議に関する教育政策形成シンポジウムレポート(熟議編)でした。