綿業が紡ぐ世界史――日本郵船のボンベイ航路

日本郵船が開設した日本で最初の国際定期遠洋航路、それは神戸とボンベイを結ぶものでした。1893年に開設されたこの汽船航路は、当時のグローバルな経済、金融、政治状況と密接に関わっていたのです。


秋田茂「綿業が紡ぐ世界史――日本郵船ボンベイ航路」『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会, 2013, pp.239-267


  • 英領インドにおける綿工業の発展


19世紀の英領インドは、これまで言われてきたようにイギリス帝国に政治経済的に完全に従属していた訳ではありませんでした。政治的には、例えば綿製品の輸入関税率は必ずしも本国政府の意に沿っていた訳ではなく、インド財政の赤字補填を大義名分として本国の政治的圧力に抗って関税が維持されることもしばしばでした。イギリスが「自由貿易帝国主義」を世界的に展開していましたが、インドに関しては現地政庁の政策が自律性を保つ余地があったのです。


そしてインド現地における綿製品の製造基盤もまた、手工業から機械工業へと転換していきました。そのきっかけになったのは1860年代の南北戦争に伴う「綿花飢饉」(アメリカ南部からの棉花供給途絶)でした。その穴を埋めた棉花の輸出で利益を得たインド現地の貿易商たちは、機械式紡績業への投資を行います。代表的な例が後のタタ財閥の創始者、ジャムセットジ・N・タタによる綿紡績工場の開設と拡大でした。1869年に最初の機械式紡績工場を設立したタタは、1882年にはスワデシ・ミル株式会社を設立し、それまで英本土で独占的に生産されてきた上級綿布市場に打って出ます。これは社名にある「スワデシ―国産品愛用」(インド国民会議の政治的スローガン)という言葉にも現れているように、インド経済ナショナリズムの台頭を示す出来事でした。


最終的にインド綿製品が世界史上において競争力を得ることになる契機は、1870年代の国際的な銀価格の下落でした。銀本位制をとっていたインドにおいてはそれは通貨ルピーの下落を意味し、ルピー安を背景にした輸出競争力の増加をもたらしたのです。一方で、マンチェスター産の綿糸はアジア域内での競争力を失っていきました。


1880年代から急速に拡大した日本の綿紡績業は、その原料としてインド棉を輸入していました。高品質綿糸の生産を可能にするインド棉の輸入は日本紡績業界にとって喫緊の課題となりましたが、当時日本〜英領インド間の航路を仕切っていたのは英P&O社、オーストリアのロイド社、イタリア郵船社の3社で構成されるボンベイ日本海運同盟であり、その運賃は棉花1トンあたり17ルピーという高水準にありました。こういう状況の中で、1893年5月に来日したJ・N・タタは渋沢栄一と会談し、日印共同で同盟の寡占状態を打破する定期航路の開設に合意します。渋沢は日本郵船に働きかけて日本〜ボンベイ航路の開設を勧め、積み荷保証が得られた結果同年11月には日印共同で定期航路の運行が開始されたのです。


その後同航路は海運同盟との熾烈な運賃競争にさらされましたが、競争の激化が危惧された結果日英が政治レベルで折衝を行い、1896年に各社間で運賃を共通化(棉花1トンあたり12ルピー)する契約が締結されます。また日本郵船ボンベイ航路は同年8月には特定助成航路に指定され、補助金が投入されたのと引き換えに運行頻度や船舶の規模等を細かく規定されることになります。インドからの棉花輸入の経路はここに、日本紡績業にとって盤石の体制を確立するに至ったのです。

  • アジア間貿易とアジア間競争


日本郵船ボンベイ航路で運ばれたのはインド棉花だけではありませんでした。帰り荷として神戸港から京阪神で製造された日用雑貨品が東南アジア向けに輸出されましたが、それは東南アジアにおける海峡植民地においてプランテーションや鉱山労働に従事した移民労働者という購買層が出現して初めて実現したものでした。また筑豊炭田で産出された石炭は、インドの機械化された紡績業の動力源としてこれもまたボンベイ航路を通じて輸出されました。このようにアジアでは、対欧米貿易と同時にアジア内貿易もまた発展していくことになります。当初はアヘンが中心的な役割を果たしていたアジア域内貿易でしたが、やがてその中心は日印から輸出される綿糸に取って代わられます。


それは同時にアジア内競争のはじまりでもありました。第一次大戦後になると日印そして中国の機械紡績糸がしのぎを削るようになります。そしてその中心にあったのは日本郵船ボンベイ航路でした。当初の主要貨物であったインド産棉花に加え、香港・上海向けのインド産綿糸もまた大きな割合を占めるようになります。中国市場におけるインド綿糸に挑戦した日本紡績業にとって、原料を輸入する航路が同時に競争相手の製品も輸送していたというのは実に皮肉なことであったと筆者は指摘しています。いずれにせよ、この時期のアジア域内貿易は協調と競争を繰り返しつつ、対欧米である程度自立した貿易圏を形成するに至っていました。


無論筆者が指摘するように、製品を輸出し利潤をあげるという意味の貿易では存在感を失いつつも、英帝国は依然として蒸気船航路網の整備や各種金融サービスの提供、通信・港湾設備の整備といった点で「国際公共財」を提供するヘゲモニーであり続けました。「世界の工場」から「世界の銀行家・海運業者・手形交換所」へと変貌を遂げた英帝国は、「ジェントルマン資本主義」(ケイン、ホプキンズ、1997)を掲げて依然として世界の貿易のインフラを牛耳る立場にありました。アジア諸国の経済ナショナリズムは、あくまでもイギリスのヘゲモニーを利用する形で発展していったのです。



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