治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その1)

特定秘密保護法参院採決が間近に迫っている中、我々は歴史から何を学べるのか?*11925年に成立した治安維持法につきまとう「言論の自由を制限し、戦前の反体制派を弾圧した稀代の悪法」というイメージから一度距離をおいて、その成立・改正・運用を扱った本を読みました。「自由と民主主義を守るためには何が必要か」という問いに、治安維持法という歴史はどういう答えを提示してくれるのでしょうか。長くなりそうなのでいくつかに分けます。第1回はその成立過程について、本書1,2章をもとにまとめてました。



本書の最大の特徴は治安維持法の成立から廃止に至るまでの経緯を、政党の役割に着目して再検討することで、戦前日本の政党政治の特徴を描く」ところにあります。治安維持法はなぜ、護憲三派の連立政権である加藤高明内閣で「結社」をとりしまる法律として成立したのでしょうか?筆者は、既存研究で重視されていた治安維持法の作成・運用主体である内務省・司法省に加えて、政党という主体にも重点をおいた分析を展開していきます。


戦前の内務省行政警察的な側面が強く、「朝憲紊乱」「安寧秩序紊乱」といった曖昧な基準に基づいて集会の解散や結社の禁止という行政処分を予防的に下すことができました。故に筆者は、そのような行政処分と重複する新たな取締法の制定について内務省は消極的であったとします。もう一つの主管官庁である司法省においては、「犯罪を裁くには明確な法的根拠に則るべきだ」という法の支配の概念が根強く存在していました。また伊藤博文により組織された立憲政友会は、外来思想に対抗する手段として教育や宗教の力で国民の思想を健全な方向へと導く思想善導を掲げ、取締法の制定にも積極的でした。一方の憲政会は「思想善導」を政友会よりも早く打ち出していたものの、取締法の制定には反対の立場だったとされます。そして護憲三派内閣最後の1党である革新倶楽部は、犬養毅「思想には思想をもって」という方針のもと、言論・出版・集会の自由を主張していました。このような各主体が存在していた中で、治安維持法はなぜ成立したのでしょうか?その問いにいく前に筆者は治安維持法以前の取締法についても言及しています。


結社に対する取り締まり、その始まりは明治期における民権運動とそれを担った政党に対するものでした。1880年の集会条例を始めとして、保安条例(1887年)、集会及政社法(1890年)、出版条例(1869年)、新聞紙条例(1875年)が制定されていきます。治安維持法以前に本格的に結社を規制した法律として1900年の治安警察法がありますが、結社の禁止処分は行政処分にとどまり、最も重い秘密結社罪でも最大1年の軽禁錮が課されるに過ぎませんでした。抑止力としては弱体であり、それ故に司法省は明確な規制根拠としての新たな取締法の制定を希求したのです。

  • 相次ぐ思想事件、対外環境の変化、そして過激社会運動取締法案の挫折と教訓


法律的な空白に加えて、国内における思想状況の変化や対外環境の変化も治安維持法成立への駆動因となりました。1910年の大逆事件1920年の森戸事件などの社会主義を背景とした思想事件や、1918年の米騒動という社会の不安定性を露にする事件が相次いで発生したのです。また1919年にはコミンテルンが成立し、共産主義に基づく世界革命の可能性が現実味を帯びていきました。このような状況に対して、原内閣は社会主義団体の監視強化、労働運動に対する融和、そして思想善導といった対策を実施しますが成果は乏しいものでした。その手詰まり感を背景として、1921年には過激社会運動取締法案が検討されるに至ります。既存の法律では共産主義者による国内での思想宣伝行為に対処できず、それを補うことを目的として成立が企図されました。しかしこの法案は貴族院において「朝憲紊乱」や「宣伝」の定義が曖昧であるとの批判(事実上の牛歩戦術)にさらされた挙げ句、国会閉会により廃案となります。しかしこのような失敗は、まさに治安維持法成立のために必要な条件と表裏一体であったと筆者は指摘します。すなわち、法案から曖昧な文言及び宣伝罪を排し、内務省と司法省が協力し、両院を説得し、政友会と憲政会を包摂する政権があることこそが治安維持法成立の必須条件であり、成立時の護憲三派内閣はまさにこれらの条件を満たしていたのです。


1920年代の共産主義社会主義団体の活動活発化の最中で起きたのが関東大震災でした。緊急勅令によって治安維持令が施行され、図らずも過激社会運動取締法案に類似の規制が実現することになります。同勅令はあくまでも緊急のものという認識が司法省にはありましたが、その中で決定打となったのが1923年の虎ノ門事件でした。それまでの社会主義勢力の伸長やソ連からの思想の流入に加えて、普通選挙の施行で想定される社会主義勢力の一層の勢力拡大とテロリズムの可能性が法律策定の理由となったのです。


さて、1925年の治安維持法の成立についてはこれまで二つの有力説が提示されてきました。一つは男子普通選挙を認める引き換えに「ムチ」としての治安維持法が制定されたとするもの、もう一つは同年の日ソ基本条約締結によるソ連との国交樹立から想定されたコミンテルンによる共産主義思想の宣伝を警戒したとするものです。しかし本書はそれらの説に一定の意義を認めた上で、憲政会と政友会が連立し衆議院貴族院を糾合することが可能になったことが最大の成立要因であると指摘します。


司法省は当初、治安維持法で「宣伝」を取り締まることを目指していましたが、大正デモクラシーの時代にあっては言論の自由を直接取り締まることは困難を伴ったため、最終的に宣伝の拠点となる結社を規制することで同様の効果を得ようとしました。特に憲政会は自ら過激社会運動取締法に反対した経緯もあり、共産主義思想の宣伝についてはソ連との間でそれを取り締まる協定を結べばよいと考えていました。日ソ基本条約第5条にいわゆる「宣伝禁止条項」が挿入されたため、加藤内閣は治安維持法を「結社を取り締まる法律」として成立させる大義名分を得ることになります。

  • 審議、そして成立


1925年2月19日、治安維持法案は第50回議会の衆議院に緊急上程されます。審議の過程では言論・出版の自由侵害の可能性が指摘されたのに加えて、過激社会運動取締法案の時と同様に「国体変革」「政体変革」「私有財産制度否認」といった言葉の定義が議論になりました。これらの言葉の定義が明確化されない限りは、合法的な政治改革がどこまで許容されるのかもまた判然とせず、政党活動や議会を通じた立法活動にすら影響を及ぼすとの危惧があったからです。

治安維持法第1条


國体ヲ變革シ又ハ私有財產制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス
前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス


審議の結果第1条にあった「政体」という言葉は削除され、議会を通じた合法的な政治変革が取り締まられる恐れは減少しました。さらに清瀬一郎は、私有財産制度の否認について社会主義的な政策がどこまで合法と認められるのかを詳らかにしようとしましたが、内務省の山岡刑事局長は統一的な基準を示すことはありませんでした。若槻内相は「言論文章の自由の尊重」を強調し、政府答弁はその点では一貫したものでした。


1925年3月5日、衆議院本会議で治安維持法は可決され貴族院に送付されます。貴族院での審議についても、別件の貴族院改革につき憲政会との交渉の糸口を模索していた最大会派の研究会が摩擦を避けたため、過激社会運動取締法の時のように貴族院がストップをかけることはありませんでした。同年3月19日貴族院で法案可決、4月22日には公布されました。


筆者は治安維持法成立の最大の要因は護憲三派内閣であったとします。「アメとムチ」説も「コミンテルン脅威説」も一定の正しさは持ち合わせているものの、そのような「理由」を背景とした上でなぜ議会がこれを可決できたのかというところに着目していると言えます。それはつまり、①憲政会と政友会の連立による議会での多数派形成②政党を通じた司法省と内務省の架橋③「宣伝ではなく結社を取り締まる法律」と位置づけることにより各党が「言論の自由」は確保されるとの共通の基盤を形成した、という3つの条件が重なって可能になったのです。また筆者は1925年段階における治安維持法の問題点として、「国体変革」という言葉の定義が曖昧でありその後解釈が書き換えられて拡大適用されたこと、結社の自由な活動を萎縮させる降下をもったことなどを指摘しています。

*1:「現在における教訓とすべし」という意味で歴史を有用化することには若干のためらいもあることも付記しておきます。

治安維持法――なぜ政党政治は「悪法」を生んだか(その2)

その1では1925年の成立に至るまでの過程をまとめましたが、本記事(その2)では1940年頃までの運用と改正についてまとめたいと思います。成立当時の政権は「言論文章の自由の尊重」(内相・若槻礼次郎)をうたっており、宣伝ではなく結社を取り締まるものとして制定された同法ですが、運用の実態はいかなるものだったのでしょうか?そしてなぜ改正を必要としたのでしょうか?第3章から第5章までをまとめました。


  • 赤化宣伝


結社を取り締まる法律として成立した治安維持法は、本来赤化宣伝を直接取り締まるものではありませんでした。日ソ基本条約には「宣伝禁止条項」が含まれていましたが、同条項はあくまでも「政府の命令を受けた人間と政府から財政支援を受けた団体」が宣伝をすることを禁止したに過ぎず、コミンテルンが事実上ソ連政府と密接な関係をもっていたにも関わらず、その宣伝行為をも取り締まることは困難でした。まして幣原協調外交のもとでは、宣伝禁止条項の厳格な運用を達成することもできず、同条項は条約締結から1年を待たずに形骸化します。その結果、当局は治安維持法の適用対象拡大に動くことになります。


1925年11月、同志社大学で軍事教育に反対するビラがまかれ、京都府特高課は京都地裁検事局検事正と協議の上で京都大学社会科学研究会の一斉捜索を決定します。内務省は若い学生の検挙に消極的でしたが、司法省は本件への治安維持法適用に積極姿勢を見せていました。予審の結果、本件では治安維持法第1条によるところの「結社罪」ではなく、第2条で定義されている「協議罪」*1の適用が争われることになります。結果としては第一審において、「私有財産制度否認」を目的とした「協議罪」で有罪が宣告されます。治安維持法はその最初の事案において、投書の目的である「結社を取り締まる法律」としては機能しなかったのです。


日本共産党は1925年の上海会議でコミンテルンから再建を指示され、「君主制の廃止」をうたった27テーゼに基づいて活動を展開していきます。同テーゼが君主制の廃止」を明記していたため、それまで曖昧だった共産主義が「国体変革」を禁止する治安維持法と一直線に接続されることになります。1928年の第1回男子普通選挙において、共産党は11名の党員を労農党から立候補させます。この公然とした活動は内務省を刺激し、治安維持法第1条の「結社罪」適用を目的とした全国一斉検挙につながることになります。


1928年3月15日、全国で1600名が一斉に検挙されます。ところが、共産党事務局長の家から押収された名簿に記載されていたのは409名であり、検挙者の大半は共産党に加入していないことが発覚します。さらに第1条の結社罪の定義においては、結社には「情ヲ知リテ」すなわち「結社の目的を知った上で」加入していることが要件となっており、名簿に名前があっても結社(加入)罪が成立しないケースさえありました。最終的な起訴数は488名となりましたが、治安維持法はその最初の大規模検挙から、怪しい容疑者を手当たり次第検挙するという「粗雑な運用」を許してしまったのです。

  • 1928年の改正


この時の改正は2つの目的を持っていました。一つは結社罪の最高刑を死刑としたこと*2、もう一つは目的遂行罪(結社に加入していなくても、国体変革等を目指す結社の目的に寄与する行動を罰するもの)の設定でした。特に後者について、改正後に拡大適用されて猛威を振るうことになります。


3.15事件は治安維持法の適用という意味では「失敗」だったとはいえ、共産主義勢力の伸長に対して政府が危機感を抱くには十分なものでした。田中内閣の原司法相と小川鉄道相は同事件を受けて治安維持法改正に積極的に動くことになります。1928年4月25日、治安維持法改正案は内閣に提出され、次いで第55特別議会で議論されることになります。大きな問題を孕んでいた目的遂行罪についてはほとんど議論されなかったものの、会期が短かったこともあって改正案は審議未了で廃案となります。


しかし、原法相は諦めませんでした。議会の承認を得ずに政府が制定する「緊急勅令」*3を抜け道としたのです。その要件に鑑みて明らかな濫用であり、田中内閣は議会軽視との批判を受けますが、枢密院審査委員会第6回審査会において同勅令は5対3の僅差で可決されます。さらに本会議での審議が行われますが、このとき昭和天皇は枢密院史上初めて「如何程遅くなりても差支なし、議事を延行すべし」との要望を出しており、表決が1日延ばされました。しかしながら、最終的に反対5賛成24の賛成多数で緊急勅令は可決されます。そして事後の議会では目的遂行罪や法案改正以前に取り締まりを充実させることなどが議論されますが、議会多数を占める政友会は討議を打ち切り、賛成249反対170で事後承認が成立します。

  • 改正後の運用


改正から3ヶ月後には民政党の浜口内閣が成立し政権交替が起きます。浜口政権は当初社会運動に対する取り締まりについて柔軟な姿勢*4を見せますが、1930年2月の第三次共産党検挙を機に挫折します。同検挙においては共産党の外郭団体に目的遂行罪が適用され、治安維持法の拡大の一端を示しています。裁判の場でも目的遂行罪は存在感を示しました。1931年5月20日大審院判決では、当人の活動が結社の目的に合致すると客観的に判断できれば(主観的な意図がなくても)目的遂行罪は成立するとの判断がくだされます。検察や警察による恣意的な運用が認められたも同然の判決でした。


1930年代に入り、治安維持法はその膨脹期に入ります。1928年から1940年にかけての検挙者数は6万5153人にのぼった一方で、起訴者数は5397名にとどまります。治安維持法の運用においては、起訴・裁判を通じた処罰よりも身柄拘束に重点が置かれていたことが窺えます。また31年から33年だけでこの期間の半分を占める3万9000人が検挙されますが、その背景には外郭団体への取り締まり強化がありました。目的遂行罪を積極的に適用して、結社罪の適用が難しい外郭団体の摘発を行っていったのです。


他にこの時期には、大量増加する起訴されない検挙者を対象として転向政策の充実を目指した改正も試みられました。司法省は思想犯の社会復帰を危惧し、予防拘禁も含めた協力な転向政策の実現を企図します。予防拘禁の導入は1934年改正案の中で司法省が最も重視した点の一つでしたが、特に貴族院で異論が噴出して同条項が削除されたため、小山内相らは両院協議会を開いて衆議院貴族院の対立を先鋭化させることで法案を廃案に持ち込みます。不本意な法案が通過するよりもあえて廃案にする道を選んだのです。


さらなる拡大適用の端緒となったのが、1935年の第二次大本教事件でした。公称40万人の信者が国家主義運動に参入することを恐れた内務省が取り締まりに踏み切ったのです。本件は共産主義活動ではなく国家主義運動に治安維持法が適用された唯一の事例であると同時に、宗教団体への取り締まりが本格化するきっかけとなりました。予審調書では出口王仁三郎が日本の統治者になることを目的としていたとの認定がなされ、内務省は「国体変革」の罪を大本教に強引にあてはめて宗教団体に治安維持法を適用する前例を作ったのです。その後仏教系・キリスト教系の団体が幅広く摘発されていきます。しかしながら国家主義運動を対象とした取り締まりはその本丸である右翼団体に及ぶことはありませんでした。各団体が「忠君愛国」を掲げて天皇制を奉じている以上、警察は限定的な指導を行うことしかできませんでした。


前年の1934年の改正案では国家主義運動の取り締まりが争点になっていましたが、松本警保局長が「右翼思想は共産主義と異なり体系化しておらず、思想として取り締まることが難しい。テロを起こした右翼は一時的に集まったに過ぎず(恒久的な結社ではない)一時的の現象」であると答弁するなどし、結局右翼対策は盛り込まれませんでした。またファシズム対策の一環として、1925年の成立時に削除された「政体変革」が政党の手で再度盛り込まれる可能性もありました。しかし筆者は、自らの合法的政治変革の可能性を守るために規制対象から「政体変革」を削除した1925年の段階の政党に対して、1930年代の政党は自らをテロから守るために「政体変革」を積極的に改正案に盛り込もうとしていたと指摘し、政党の凋落を如実にあらわしていると述べています。

  • ここまでのまとめ


内務省と司法省は法律と現状との間に齟齬を認めると、まず拡大解釈、ついで法改正を志向することで穴を埋めようとしました。2度に渡る改正の試みは失敗しましたが、目的遂行罪を中心とした摘発の増加により、共産党・その外郭団体共に1935年までにほぼ壊滅します。しかしその後も治安維持法は適用対象を拡大し、宗教団体、学術研究会(唯物論研究会)、芸術団体なども摘発されていきます。こういった適用対象の成立当初の目的を逸脱した拡大は思想検事たちも認めるところであり、だからこそ彼らは改正を志向しましたが、もはやその改正は誰かの政治的リーダーシップのもとに行われるものではありませんでした。思想検事の一人・中村義郎は、「制度というものの通弊で、ひとりでに増殖していく」と回顧しています。


筆者によれば、最大の問題は政党の凋落でした。1930年代の各党は政争に明け暮れ、治安維持法を制御できないばかりかそれに守ってもらおうとすらする有様でした。また陸軍の台頭についても筆者は言及しています。人民戦線事件の背景には陸軍皇道派の影響が指摘され、内務省は陸軍との関係で運用に恣意的にならざるを得なかったのです。

*1:第1条で指定されている国体変革などの事項を目的とした協議を行うことに対し課される罪で、第1条より量刑は軽い

*2:ただし日本国内において治安維持法のみで死刑を執行されたケースは存在しない。治安維持法が適用された中で起訴者が死刑を科され唯一のケースはゾルゲ事件だが、本件については治安維持法違反ではなく国防保安法違反を理由として死刑が科された

*3:もちろん無条件に発動できるわけではなく、公共の安全を保持し災厄を避ける目的であること、議会が閉会中であること、緊急の必要性があることが要件とされ、また事前に枢密院の審査を受け事後に議会の承認を受ける必要がありました

*4:学生検挙者への寛容な処置、合法的な社会運動と共産主義運動の峻別、思想犯に対する取り扱いの改善