言論抑圧―矢内原事件の構図

戦前期における思想・言論弾圧事件として著名な矢内原事件(1937)を出版界の状況、大学の内部抗争、政府からの圧力といった多面的な視座から緻密に描き、現代に通じる思想的課題を提示した本。学内で陳謝することをもって幕引きが図られようとしたさなか、なぜ矢内原は辞任しなければならなかったのか?そして言論・学問の自由は何に脅かされるのか?


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  • マイクロヒストリーとしての矢内原事件


帝国有数の植民地政策学者であった矢内原忠雄は、そのキリスト教信仰もあり、単なる「統治者ー被統治者」関係としての植民地政策学を目指すのではなく、社会現象としての植民を科学的・実証的に捉えて帝国主義論の一つとして描く希有な学者だった。1930年代後半に時局が切迫していく中で、平和と正義を国家の理想として掲げ、そこに至らない日本の現状を舌鋒鋭く批判した論考・講演を世に送った彼は、徐々に体制との緊張関係を強めていく。


これまでの歴史叙述はいずれも、「大学の自治に対する弾圧」「キリスト者としての矢内原個人の闘争」「東京帝大経済学部内における権力闘争」「右翼勢力からの言論攻撃」といった個々の側面に単純化してこの事件を捉えてきたと筆者は指摘する。そしてそのいずれもこの事件の全貌を描き出すには不十分であり、この事件を取り巻く個々のアクターの立場や思考を当時のままに細密に叙述する「マイクロヒストリー」の手法を用いることで、多様な側面の相互関係を描き出すことの重要性を強調している。


新聞をも凌駕する影響力を持っていた中央公論などの総合雑誌」に学者が国論を発表するという戦前期独特の言論空間の存在を背景として、矢内原の論考や講演は内務省を中心とする体制に危険視されるに至った。そこでは右翼の論客・簑田胸喜からの激烈な批判も大きな役割を果たしていた。また当時矢内原が所属していた経済学部内部では苛烈な派閥争いが行なわれており、特に国家主義的な思想を持っていた土方学部長を中心とする一派の矢内原「国家の理想」論文に対する批判は厳しかった。しかしながら以上のような逆風の中でも、帝大総長・長与又郎は矢内原が陳謝することによって事態の収拾を目指す腹づもりだった。


しかし、1937年11月30日をもって状況は急展開する。木戸文部大臣、文部省幹部、そして長与総長による会談の中で、木戸が「矢内原の言動は国会にも説明がつかず、このままでは大臣辞任にすらつながりうる。矢内原辞職すべし。」との判断を示したためである。筆者はこの背後には内務省警保局からの文部相への圧力があった可能性を指摘し、また文部省側の認識として「矢内原の論考「民族と平和」は国体精神に反する」との新たな見方が示されたことが長与に対するプレッシャーになったと指摘する。


大学令その他を字義通りに解釈すれば矢内原の任免権を法的に押さえているのは総長の長与であったが、周囲に「勇気に欠ける」と評されていた長与は議会紛糾・大臣辞任からの帝大全体への影響を考慮し、矢内原一人を切ることで「大学の自治」を維持する方向に転換する。長与の意を受けた経済学部教員の大内兵衛・舞出長五郎が矢内原に辞職するよう促し、矢内原は「これ以上迷惑をかけたくない」とそれを受け入れ辞表の提出に至った。


以上は、本書でマイクロヒストリーの手法をもって詳述されている矢内原事件の過程をかいつまんでまとめたものである。本書の歴史叙述を通じて描き出される矢内原事件は、大学と政府の権力関係のみならず、当時のメディア環境、大学内部の権力闘争、関係各個人の個性・立場、右翼との関係、政府内部の権力闘争などの多様な要素が形作った流れの中で「辞職」という結末を迎えたといえるのではないだろうか。


筆者は矢内原事件から導きだされる思想的課題として、愛国心・大学の自治言論の自由の3点について論じている。


愛国心については矢内原、簑田、土方の愛国心の違いを比較することで思想的課題をあぶりだしていく。矢内原のそれは「国家の理想」と「国家の現実」に差があるとき、理想に至らない現状を批判する*1ことこそが愛国心の発露であるというものだった。一方土方や蓑田のそれは目の前に現実としてある国家をあるがままに愛するというある種盲目的なものだったとも言える。土方は理想を掲げることは否定しなかったが、一度時局が切迫すれば国家の現状を批判することはその足を引っ張ることと同義であり、それ故に慎むべきだと矢内原を批判した。


大学の自治については、長与総長の個人的資質への着目が重要である。事件に関係した人々の中では矢内原や他の大学関係者と比べて最も大学の自治に対する意識が高かった長与でさえ、矢内原の処遇に関する土方経済学部長との不一致や文部省からの圧力を前にしては、「泣いて矢内原を斬る」という選択肢を選ばざるを得なかった。筆者は大学や学問のあるべき姿として語られてきた自治や自由が、それとはある種対極に位置するとも言える総長のリーダーシップによってのみ維持され得るのではないかと指摘し、大学の自治は極めて脆弱なものだと言う。


最後に言論の自由について、それに対する抑圧をどう捉えるべきかという視座が提示される。戦前期の言論抑圧を出版業界と政府との関係に重点を置いて概観した筆者は、ジャーナリスト・馬場恒吾の言葉を(同じものを)二度にわたり引用してその特質を強調する。

私は大東亜戦争の始まる年までは、一週間に一度は新聞に、毎月幾つかの雑誌に政治評論的のものを書いていた。それがだんだん書けなくなって、戦時中は完全に沈黙せざるを得なかった。どうしてそうなったかというと、、新聞や雑誌が私の原稿を載せなくなったからである。しかしいかなる官憲も、軍人も、私自身に向ってこの原稿が悪いとか、こういうことを書くなと命じ、または話してくれたこともない。すべてが雑誌記者もしくは新聞記者を通しての間接射撃であった


この現象を一般国民の目から見るとき筆者が重要だと指摘するのは、どのような言論人が何を言っているかを注視することではなく、「どのような言論人が表舞台から消えていったか、どのような見解をメディアで目にすることがなくなったかについて、把握すること」である。馬場も、そして矢内原も「自らが沈黙を強いられていること」すら語ることができなかった。政府と一般国民との間に出版業界という主体を挟んで見たとき、政府が出版業界に加えている有形無形の圧力を通じて出現する言論抑圧という現象が認知されにくい大きな理由はまさにここにあると筆者はいう。

  • 思想史学者としての筆者


筆者のそもそもの専門はヨーロッパ政治思想史である。また博士論文においては14世紀のフランチェスコ会ウィリアム・オッカムの異端的教皇への抵抗の理論を研究している。日本や欧州といった空間的な制約を離れたとき、筆者の中で通底するテーマは「暴政への抵抗思想」である。本書以前の筆者の研究は抵抗思想の理論的側面を捉えたものが中心であったが、本書において筆者は「理論としてわかっていても現実に実践するのは難しい不正な政治への抵抗の実態」を矢内原事件を通じて考察することで、政治思想史学者としての現実へのコミットメントを果たそうとしたと振り返っている。

  • コメント


本書に詳述されている矢内原事件の全貌は、マイクロヒストリーという形での重層的な歴史叙述を通じて現れた複雑な構図である。そこには最高の責めを負うべき唯一の責任者」は存在しない。それぞれがそれぞれの意思を持って行動し、それが形作る何か(あえて「空気」とは言わない)が「矢内原辞職」という帰結をもたらしたのである。descriptionとしての歴史が果たすことが出来るのは、こういう複雑な構図をありのままに世に問うていくことなのではないかと感じる。


総合雑誌という言論空間を通じて学者がその主義主張を世に問うという営みは大正〜戦前期にその隆盛を極めたと言えるだろう。そしてそこに対する権力の抑圧は、出版業界に対する有形無形の圧力(配紙の制限、検閲担当者の指示、それを忖度した出版業界の自己規制)を通じて出現した。それに比して現在、学者が国家を語る論壇の中核を占める流れは弱まっているように思われる。象牙の塔にこもることこそが学問のあるべき姿であるとの信念以上に、大学を取り巻く環境の変化(予算の削減・獲得競争と人員の減少)や学問が持つ権威の弱体化が大きな影響を及ぼしているのではないだろうか。また、学者の側の「権力に抵抗する」「批判的な精神を持って自由に言論を行なう」という意識が弱まっていることも挙げられるだろう。


筆者はインターネット空間における匿名言論の惨状を指摘した上で、インターネットにおける自由は「多数の暴政」の温床となりうると危惧している。匿名の「蓑田胸喜」が自らの発言の責任を引き受けることもなく罵詈雑言をまき散らしている現状にあっては、我々は矢内原事件を「戦前軍国主義体制下において生じた過去の事例」と矮小化することはできないのかもしれない。


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*1:これと非常に似ているのが、現代中国エリートの一部の議論の仕方である。私の経験上、彼らはインフォーマルな場では現在の政府のあり方を批判することも多い。そのときに彼らが用いる正当化のロジックは「中国は目指すべき理想像を持っているが今はそれに対して不十分である」というものである。それを「愛国心」として包摂する姿勢は、矢内原的な愛国心の発露と軌を一にするものだろう。

NASA―宇宙開発の60年

設立から約60年が経とうとしているNASA(米航空宇宙局)の歴史を概観した本を読了。単なる宇宙開発・宇宙科学の歴史ではなく、政治や行政といった要素を中心に据えたNASAの「組織史」を俯瞰することができる良書だった。


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  • ポイント


①組織の成り立ちに鑑みると、NASANASA本部と各センターが必ずしも階層的な権力関係にあるわけではないということ、②宇宙開発・宇宙科学を担う組織としてのNASAは常に政治的な要素を最大限考慮し、それは開発の最前線にも影響を与えてきたということの二つが個人的には気になった。


①については、軍の各研究所や大学の研究所に加えて新設の研究所をも「センター」という形で各地にぶら下げることになった組織構造に起因している。個々の計画の実施は各センターに委ねられるが、その業務分担にあたっては各センターの強み弱み、センターごとの組織風土、そして政治的な要素(各州に分散するセンターにおける雇用を考慮するとセンター間にある程度均等に業務を分散しなければならない。予算に対する議員の支持を得るためそうせざるを得ない)が強く影響している。計画達成のために最適と思われる業務分担・運用構造が必ずしも実現されないという実態が、特に国際宇宙ステーション計画の実施を事例として描写されていたのが興味深い。筆者はNASAが官僚化していく中でNASA本部の権限は増大してきたと指摘するが、個人的には各センターがそれなりの自律性を持っているという点が興味深かった。


②については、しばしば宇宙開発の理想郷とされてきたNASAにおいても、予算獲得のためには政治を重要視してきたということが歴史的に記述されている。歴代の長官は理工系の知見を備えつつも、その最大の役割はワシントンでのスポンサー獲得や国防総省との折衝であったという事実がそれを端的に示している。米ソの宇宙開発競争終焉後は特に、予算が削減され人員も減少する中でNASAは苦境に立たされることが多くなった。そういった中で、特に無人探査の分野においてFBC―Faster, Better, Cheaperというコンセプトの下に小規模プロジェクトが増えていったという筆者の記述は、宇宙開発という「夢」を追い求める冒険的な分野においてさえコスト意識というものが浸透してきていることを感じさせる。

  • NASAの今とこれから


筆者は米ソ宇宙開発競争の終焉や宇宙に対する「夢」の弱体化が見られる昨今においてもなおNASAが相応の予算規模を持って存続している最大の要因を産業界に見いだしている。多くの雇用を抱える産業界を潰すことになるNASAの弱体化は、一部の連邦議員にとって許容し難いことだからだ。その空気を敏感に捉えているNASAもまた、業務の外注を増やすことにより産業界を支えようとしてきたという持ちつ持たれつの構図がそこにはある。と同時に、筆者は未だ色あせない「NASAブランド」の力も指摘している。過去の実績もあり、人々は依然としてNASAを「卓越した能力を持つ開拓者」としてその実力以上に評価している。


予算の減少が避けられない中にあって筆者は、NASAには研究開発運用体制のモジュール化・分権化が必要であると指摘している。情報技術分野の研究開発体制に象徴されるように、科学技術の「アーキテクチャ」は多くの場合分散型・分権型へと移行の一途を辿ってきた。NASA本部による管理の強化とNASA自体の官僚化の進行はこれに逆行するものであり、分権化とモジュール化によるコストダウンと自由裁量の両立を図ることがNASAが生き延びる道であると提言している。



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日本における産学連携―その創始期に見る特徴―

明治初期から第二次世界大戦にかけて、日本の産学官軍連携はどのような状況にあったのか?第一次世界大戦を契機とした、産学官軍の密接な連携を詳述した論文。本論文では、大学の学知の中でも工学、医学、化学といった応用部門が取り上げられその産学官軍の連携の実態が事細かに記述されている。


鎌谷親善「日本における産学連携―その創始期に見る特徴―」『国立教育政策研究所紀要』第135集, pp57-102, 2006年3月
ここからDL可

  • 概要


明治期の日本においては幕末の蘭学-洋学を実学として捉えた延長線上で西欧科学技術が捉えられ、工学や農学といった「国家ノ枢要ニ応シル」学問を包含した総合大学が成立していた。大学においては初期の段階から学界と官界を行き来する教員が多数見られ、官と学が密接な関係を保持していた。また1884年東京大学理学部に海軍の要請で造船学科が創設されたのに象徴されるように、軍との関係も密接なものであった。池田菊苗がうま味成分としてのグルタミン酸ナトリウムを発見(1907)し、民間企業と共同で「味の素」として発売したことは、大学が持つ先端知が産学連携を通じて商業化されていたことの好例である。なお筆者は国立試験研究機関(衛生局、醸造試験所など)の成立にも着目し、産業のインフラとしての基礎研究機関が明治初期の段階で官界で整備されていたことも取り上げている。


西洋科学技術の国産化を達成するために産学官軍は密接な関係を保ち続けた。そこでは、日露戦争で各国が局外中立を厳守したが故に英国製軍艦の引き渡しがなされなかった結果造船技術の国産化が目指されたという事例にみられるように、安全保障上の理由も強く働いていた。この流れが一つの頂点に達するのが第一次世界大戦(1914-1918)である。列強が科学技術動員を背景とした総力戦を展開したことに刺激されて、単に軍事技術のみを育成するのではなく幅広い科学技術、産業の育成を通じた国力増進が強く志向された。その際には、新たな大学令の公布による単科大学・私立大学の設置という形での、大学の制度的整備と量的質的な充実も図られた。また理化学研究所、そして東京大学航空研究所*1などの附置研究所が設立されたのも同時期である。これらの研究所においては教育義務を免除し研究の自由が確保された上で、官民軍からの寄付や研究成果の商業化による収入が柱となる収入金支弁方式によって運営が支えられていた。個々の研究者の独立性が高い「研究室方式」をとっていたこれらの研究所では、軍事のみならず民生面においても幅広い成果とその商業化が見られた(例:医薬品、一般工業用品、化学製品など)。


日中戦争、そして第二次世界大戦と時局が進行する中で、産学官軍の連携による研究開発は挫折も経験している。例えば液体燃料の開発については、京都大学に附置された化学研究所において政府の資金と住友財閥からの寄付により合成石油の製造が研究された。大戦末期にはプラント建設にまでたどり着くが、本格的な産業化には至らず、日本は降伏した。以上の経緯を振り返ると、日本の学界はその成立段階からして応用分野を包摂していたために産学連携に親和的であったといえ、第一次世界大戦という刺激を通じて幅広い応用分野で産学連携の成果が見られたものの、最終的に第二次世界大戦の帰結には貢献できなかったといえる。なお筆者は、官民軍の側にも試験研究部門があったことで、大学における研究成果を産業化する素地が整っていたことも強調している。




*1:筆者によれば、当初航研が越中島に置かれたのは、水上用飛行機の開発を求めていた陸海軍の要請によるものである。ただし航研は関東大震災で壊滅的な打撃を受けた結果、駒場に移転している

欲望と消費の系譜(3章、4章)

昨日の続きで第3章と第4章を読みました。


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  • 第3章「ショッピングとしての通貨―仮想ショーウィンドゥの中の無形商品」


本章では18世紀のデンマークの投資家バルタザール・ミュンターに関する資料をてがかりに、消費者としての投資家を中心に据えた金融史の再検討の意義が提示されています。目前の販売者に対する信頼に基づいて「無形の商品」を取引する投機という行為について、ミュンターが息子に宛てた書簡の分析を通じて、彼自身の一消費者としての心の動きが叙述されていきます。ポイントとしては、①お金に働いてもらうことの倫理性に対する自覚の芽生え、②無形の商品を売買するという意味での投機に、その背後にある経済の動き(生産者、奴隷貿易など)を想像することを通じて物質性を与えようとする試み、の二つでしょう、たぶん。単に利ざやを稼ぐだけの営みとしての投機を行なう合理的な投資家像を想定するのではなく、様々な尺度で自分の判断に「迷い」ながらお金を投じる消費者像を想定することにより、より豊かな消費文化史が記述できるのではないかと筆者は指摘します。

  • 第4章「消費と幸福」

アレキサンダー大王が道端で木の樽を住処としていたディオゲネスに会いに行ったときの話だ。アレキサンダーディオゲネスに何かしてやれることはないかと尋ねた。ディオゲネスは、陽の光を遮るのをやめてほしいと懇願した。アレキサンダーは「もし私がアレキサンダーでないのなら、ディオゲネスになりたい」とこたえた。ここに、幸福の解決困難な二面性が垣間見えるともいえよう。(p159より抜粋)


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欲望と消費の系譜(序章、1章、2章)

来週開催される読書会に向けてつらつらと読んでいます。物質的なものだけでなく非物質的なものも消費の対象として捉え、多様な形態をとる「消費文化史」を描き出そうとする試みの書です。


草光俊雄/眞嶋史叙『欲望と消費の系譜』NTT出版, 2014


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  • 序章「消費社会の成立と政治文化」


本章では18世紀イギリスを事例として「伝統的な旧体制(アンシャンレジーム)から近代的な商業社会への、シヴィックヒューマニズムに基づく伝統的「徳目(ヴァーチュー)」から近代的「礼儀(シヴィリティ)」・「礼儀作法(マナー)」への移行を探求する試み」(p3)が行なわれています。モノを生み出すという生産力中心の経済史観を脱却し、社会や文化といった側面を射程に入れて分析を行なうことで、この時代が「人びとの消費への欲望」により大きく変化してきたことを明らかにしようとしているのです。奢侈論争、徳と作法、公共圏の成立といった点に着目して主要な思想家を位置づけることを通じて、富を蓄えた利己的な人間の消費行動がいかに正当化され批判されたのか、文化や自然が消費の対象となる仕組みがどのように出現しそれは市民社会の成立とどのように関係していたのかが簡潔に論じられています。

  • 第1章「アジアの織物とヨーロッパ」


本章の目的は、一言でいうなら「インド産の綿織物が西洋に与えた長期的な影響力を否定する」(p51)ことにあります。産業革命期に発生した「消費革命」に際して、インド産の綿織物が長期的かつ重大なインパクトを与えたとする通説に対し、筆者はイギリス国内における綿織物の輸入代替化プロセスを詳らかにすることにより反論していきます。筆者の論を借りれば、東インド会社により輸入されたインド製の綿織物とそれに付随するデザインの理想像がイギリス製綿織物に変革をもたらしたとする見方は、イギリス国内における綿織物流通の実態や輸入代替の端緒としての中央アジアからの綿織物の輸入といった要素を踏まえていないということになります。また「デザインの理想像としてのインド綿織物」という見方も、東インド会社によるマーケティング手法(ヨーロッパの側から想像されるアジア的なものを踏まえたデザインをインドの工場にたびたび要求し、イギリス市場で売りさばく)の分析を通じて否定されていきます。イギリスにおける綿織物産業の隆盛は、大衆による消費の拡大とモノのデザインの革新という意味でのイノベーションによってもたらされていたのです。

  • 第2章「ヴェスヴィオに登る―ツーリズムの歴史を読み直す」


1冊の宿帳から話は始まります。そこに現れる各国の旅行者の出自に関する自己認識やヴェスヴィオを前にした思考の吐露をトレースすることを通じて、筆者は19世紀イタリアにおけるツーリズムの変容の実態を明らかにし、ひいてはツーリズムという概念そのものの揺らぎを詳らかにしていきます。1822年に大噴火する以前のヴェスヴィオは、多彩な旅人が古典を携えて眼差しを注ぎ、居合わせた旅行者や友人との心情を共有する対象でした。噴火以後のヴェスヴィオへの旅行者は流転する世情や政治問題、経済情況によって左右される存在であったと指摘する筆者は、19世紀の西洋における旅行の商品化・大衆化によって近代的娯楽ツーリズムが成立したとする通説に批判を加えます。この分析を通じて筆者は、現代のツーリズムをみる際にはそれを単なる余暇としての旅行と捉えるのではなく、個々の旅人を取り巻く経済社会情勢をも射程に入れた単なる消費行動にとどまらないツーリズム概念に拠ってたつべきだと主張します。交通機関の発達により様々な理由に基づく人の移動が活発化する現代において、単なる娯楽としてのツーリズムとそこで「踊らされる消費者」を想定するだけでは不十分であり、ヴェスヴィオにおけるツーリズムのあり方の変化はまさにその嚆矢と言うべきものだったのかもしれません。


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原子核・素粒子物理学と競争的科学観の帰趨

昭和前期における日本の物理学者たちの研究に対する姿勢を「競争的科学観」という概念を設定して分析した論考を読みました。「西洋においつきおいこせ」、その内実は複雑さに満ちていたようです。


岡本拓司, 「原子核素粒子物理学と競争的科学観」『昭和前期の科学思想史』勁草書房, 2011, pp.105-185


昭和前期の科学思想史

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  • 概要


江戸末期生まれで御雇外国人の導くままに西洋から移植された科学を学んでいた長岡半太郎は、やがて西洋における科学の最先端の動向を把握するに至り、それと対等に勝負することを目指して研究する方向へと転換した。また長岡は後進にも西洋に互するような研究を目指すよう発破をかけ続けたが、日本の研究水準がそれに達したと認められたのは長岡の最晩年のことであり、長岡は容易に日本人の研究をほめることはしなかった。仁科芳雄も長岡と同様の問題意識を持っていたが、日本の研究体制・設備が貧弱であるが故にそのインフラ整備に自身のリソースの大半を割かざるを得なかった。


その次の世代としての湯川秀樹朝永振一郎といった研究者はタイミングに恵まれていた。量子力学という新しい分野が物理学において「パラダイムシフト」をもたらした結果、西洋の研究者に対して「蓄積」という意味で遅れをとることがなかった。同じスタートラインから出発できたという外的な環境の中で、湯川や朝永は新興で難解な学問に対するあこがれをモチベーションとしていた。そこには長岡や仁科に見られるような「競争的科学観」を観察するのは難しい。なお筆者は、明治期に整備された帝国大学・高等学校を中心とする語学・基礎教育体制が彼らが最先端の研究に従事する基礎体力を作ったとも指摘している。


長岡の死の直前、湯川のノーベル賞受賞によりこの競争は一つの区切りを迎える。湯川世代においては他国との競争という点は必ずしも主要なモチベーションではなかったが、純粋に「世界を理解する」という個人ベースの目的に邁進したというのもまた難しく、知性が世界のトップにあって尊敬・評価されるという知的自尊心の充足が重要であった。

  • 純粋科学について(個人的メモ)


・日本においては工学・農学が応用を目的として高い社会的地位を持って役割を果たしていたが故に、物理学等の純粋科学において応用を目的とすることを必要とさせなかったという逆説的な側面がある。故に純粋な科学としての物理学が発展する土壌があった。


・応用により国力を高めることを通じて国家間競争をするのではなく、純粋な知的成果を出せるかどうかを国ベースで競うという別次元での国家間競争があった。


・特に仁科らが戦時中も純粋科学を志向した背景として、彼らが「戦争が終わったときに純粋研究では相手に劣っていた」と評価されるのをよしとしなかったということがある。戦争が中終盤に差し掛かると純粋科学を志向していた彼らでさえ応用研究に邁進せざるを得なくなるが、それが戦争の帰結を決することはなかった。


・純粋科学の成果をもって競争するという枠組みは世界的に共有されたといえるものだったが、戦時中は一時的に「原子爆弾の開発」という応用分野における成果を誰が一番先に達成するかという目的がそれに取って代わった。


・戦後入ったアメリカの調査団には「経済難、食糧難の中で基礎研究に拘り過ぎである」との評価をくだされた。

  • その他


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日本の原子核・素粒子理論研究隆盛の要因 岡本「競争的科学観の帰趨」 - オシテオサレテ


科学思想史
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日本における科学史の社会的基盤と社会的インパクト

現代における知的営み、それはその外部としての「社会」を想定することなしに語る事はできません。メディチ家レオナルド・ダ・ヴィンチを養っていた時代は遥か昔に終わり、現代の学術研究は筆者の言う種々の「社会的基盤」を伴うことなしに営まれることは不可能でさえあると言えます。そんな時代にあって、科学史家たちは何を目指して知の歴史を紡げば良いのでしょうか?


伊藤憲二「日本における科学史の社会的基盤と社会的インパクト」『科学史研究』第269号, 2014年4月, pp7-13


科学史研究2014年4月号
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コスモピア (2014-04-28)


筆者は「科学」という概念が包摂する対象が多様である事を指摘した上で、狭い意味での「科学」(=いわゆる自然科学のこと?)を対象として科学史を営む方向性には否定的な立場を取ります。科学史の外部にあり境界確定された「科学」を想定することにより、他者としての科学史の側から科学を批判的に検討する事のメリットは認めています。しかしながら、科学史が対象とする知的営みの中に科学史そのものも含めることにより、科学史という知的営み自体を自己分析・自己批判の対象とすべきであるというのが筆者の結論です。


筆者は、ある学術分野が十分な知識生産の社会的基盤(知識生産に資源を供給する社会的な仕組み)を備えるためには、投入された資源に見合う社会的インパクトが不可欠である場合が多いといいます。科学史の社会的基盤を整えるために必要な投資は巨大科学のそれに比べて圧倒的に少ないことは認めつつも、科学史研究が社会的インパクトの創出を諦めてなおその基盤を整える事は不可能であるとし、現在科学史が持つ社会的基盤を維持・向上させるためには社会的インパクトの強化が不可欠であると主張します。


第二の選択を踏まえて、科学史研究は自らの社会的基盤を整えるに見合う社会的インパクトの創出に際して、どのような方向性を目指すべきなのでしょうか?筆者は「基礎ー応用ー社会実装」といったような古典的リニアモデルが教科書的には主張されてきたことを認めつつも、学術研究がもたらす社会的インパクトの道筋は複数かつ複雑であると主張します。


科学史研究がもたらす社会的インパクトを「学問知の生産とその発表」「一般向けの科学史知識の発信」「科学史の専門知を用いた政策・司法・政治に関わる活動」「科学史の専門知や専門技能を用いた大学等の教育機関における人材育成」の4つに区分する筆者は、その内実と可能性について検討していきます。検討の詳細は割愛しますが、筆者はいずれの分野にも可能性があるとした上で、自身が所属する総合研究大学院大学先導科学研究科生命共生体進化学専攻における取り組みを4番目の区分に分類される実例として紹介しています。


筆者は本務校での経験を踏まえ、4つの分野の中でも特に人材育成に科学史が果たす役割を重視しているように思われます。そこには「学術研究と社会との関係ということは、極めて重要な現代的課題であり、それについて理解している、研究者と社会人の育成は極めて重要」であるという"社会的意義"があると同時に、アカデミックポストの増大といった形での科学史自体の社会的基盤の強化にもつながるという可能性があります


科学史的な素養を獲得する事を通じて「知識生産に対する批判的な視座」を養い「自らの営為に対して自省的な思考をすることのできる人材」を育成すれば、それは「知識生産の社会的インパクトと社会基盤の関係を適正化するのに貢献すること」につながると筆者は言います。その文脈において科学史研究者は自らの社会的役割を確立することができると思われる一方、そういう営みに携わる上ではやはり科学史をも含む様々な知的生産のあり方を対象とする科学史を志向することによって自らの社会の中における位置づけに自覚的になっていく必要があると筆者は結論づけています。

  • コメント


筆者の論を参照するに、有用なものとしての科学史、それを志向することはもはや現代においては避けられないのかもしれません。私自身の一つの危惧としては、人材育成の「ためにする」科学史は真の科学史足り得るのかということがあります。人材育成とは離れたところで純粋な歴史叙述としての科学史を修めた上で、その純粋科学としての科学史をゆらがせることなく人材育成に科学史の知見を生かすというのは一見器用に分割可能であるように思えます。しかしそういう流れが主流となった時に、そのために育成される科学史家が生み出す科学史研究に歴史研究そのものとしての価値はあるのでしょうか。いやもちろんあるのでしょうが、教育のためにするという方向性が強化されるが故に反射的な影響もあるのかな、とふと思いました。


科学史研究2014年7月号(No.270)

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